最近、相次いで来日公演を行ったオーストラリア・バレエ団とグルジア国立バレエの「白鳥の湖」では、いずれも、白鳥や湖が、登場人物の幻影であるという解釈による演出になっていましたが、「幻影解釈」の元祖的存在のパリのヌレエフ版では幻影であったオデットが、現実の城の舞踏会に現れ、さらには、幻影を失った王子の死をも暗示するインパクトのある演出であったのに比べると、今回披露された2つの舞台では、幻影は決して現実を浸食することはなく、特に、グルジアのファジェーチェフ版は、いわゆる「夢落ち」であって、ヌレエフ版のようなインパクトのあるものではないと感じました。
グルジア国立バレエのファジェーチェフ版では、第1幕がバレエスタジオでのリハーサル。そして、第2幕以降が、練習に疲れたプリンシパルが見る夢。終曲は分断され、最後のメノモッソの部分のみ、スタジオで夢から覚めたプリンシパルのシーンに使用するというもので、好感の持てるものではありませんでした。オーストラリア・バレエ団のマーフィー版の方は、第2幕の湖と白鳥が、王子(=皇太子)の愛人問題に悩むオデット(=皇太子妃)の幻影。王子ではなく、オデットの幻想としたのはユニークですが、その契機がオデットと王子とロットバルト男爵夫人(皇太子の愛人)との三角関係であるというのは、この音楽が描く美しい幻想にそぐわないような気がしました。

このオーストラリア・バレエ団のマーフィー版について、先日、朝日新聞に掲載されたレビュー(7月27日付夕刊)の中で、第3幕ラストでのオデットについて、「彼女は病院=湖へと連れ去られる」と書かれていますが、これは間違っていると思います。男爵夫人主催の夜会の第3幕のラストで、招かれざる客のオデットを男爵夫人が再びサナトリウムに送ろうとしますが、オデットは、捕らえられることはなく、夜の闇に逃げ込んでしまいます。公演プログラムにも、「オデットは夜の闇のなかへ逃げ去っていく」と書かれています。そして、第4幕では、王子の後悔と嘆きをよそに、ついに闇の世界に消えてしまい、彼女の死が示唆されています。第2幕で現れる湖は、サナトリウムに収容されたオデットの夢想ですが、第4幕で現れる湖は、闇の中のオデットの夢想なのでしょう。第2幕のグランアダージョでドリゴの終止を採用しないなど、プティパ版にとらわれずに原曲を積極的に使うなど、見るべき点はありましたが、やはり、愛人問題とか三角関係といった設定になじめませんでした。

なお、僕が見たのは、オーストラリア・バレエ団のマーフィー版が7月14日(18:30)、グルジア国立バレエのファジェーチェフ版が7月21日、いずれも、東京文化会館での公演です。

今回の両バレエ団の「白鳥の湖」の日本公演については、すでに、色々なブログにコメントが載っているようです。
オーストラリア・バレエ団の公演については、
「散在日誌 ballet」の
http://ried.blog43.fc2.com/blog-entry-160.html
「Haskellな日々」の
http://plaza.rakuten.co.jp/MiriamHaskell/diary/200707140000
などに、
グルジア国立バレエの公演については、
「エンタメ日記」の
http://blog.goo.ne.jp/piero0323/e/8f551fb037606d3035be03d3ac6c0777
「萌映画」の
http://blog.goo.ne.jp/rukkia/e/86b967bfb813cf4aef1c36dfbb8aeda7
などにコメントがあります。

〔HPのバレエ・オペラコーナー〕
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/swanlake.htm