J.K.ローリングの長編ファンタジー「ハリー・ポッター」シリーズ全七巻が、第7巻「ハリー・ポッターと死の秘宝」発売で完結し、邦訳も出そろって、読者としても、およそ十年に渡る読書の旅が完結しました。
HPの雑記帳のコーナー
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/news.htm
にも、感想を少し書きましたが、スネイプの秘密が明かされる第33章で、あまりにもせつない感じに圧倒されてしまいました。訳者の松岡さんのあとがきにも、「私にとっての圧巻は三十三章だ」と書かれていますが、あそこで衝撃を受けた人は多いのではないでしょうか?第32章のラストでのスネイプの最期の言葉の意味も、第33章を読んで初めてわかるようになっているんですね。誤解を恐れずに言えば、「リリーは裏切り者ではないか?」と感じてしまいました。こんな感想を抱くのも、スネイプへの感情移入のためなのでしょう。複雑な思いで、自分の中では、気持ちの整理ができません。「一九年後」と題された終章の平和な世界の情景描写を読んでも、切なさが消えず、なんだか、空しささえ感じてしまいました。
この終章を「しあわせ」と呼ぶなら、しあわせなんて、まやかしだ!この世は裏切りそのものだ!もしかしたら、それこそが、作者のメッセージだったのではないか、とさえ思えてしまいます。そう考えれば、主要なこどもキャラの中で、最も魅力的と感じられるキャラだったルーナだけが終章に登場しないことも、初めて理解できるのです。ルーナが彼女自身の部屋の天井に描いていた絵と文字をハリーが見つけて感動する場面(第21章)で「ルーナに対して、熱いものが一気に溢れ出すのを感じた」のはハリーだけではないでしょう。
ルーナは、ジニーのともだちとして第5巻で初登場しましたが、第5巻が映画化されたときには、ルーナ登場の場面で、たしか、ハーマイオニーが他のともだちにルーナを紹介していて、その言葉が、日本語版で「不思議ちゃん」という歴史の浅い言葉になっていたと記憶していますが、ルーナには、ハーマイオニーやジニーには見えないセストラル(死に向き合った者のみに見える動物)が見えていたんですよね。
謎が明かされた「ハリー・ポッター」の世界が、これが世界というものなら、世界全体などを考えたら、あまりの空しさに、一歩も動けなくなってしまうでしょう。作者がダンブルドアの妹に与えた運命の残酷さなどは、語ることさえ避けたいほどです。
ほかの読者はどう感じているのだろうと、ネット検索をしてみたところ、
邦訳が出版される前の昨年12月に書かれていた
「少佐の記憶」というブログの中の
「『ハリー・ポッターと死の秘宝(第7巻)』ネタバレ感想」という記事
http://syousanokioku.at.webry.info/200712/article_6.html
の中に、シリーズの題名について「"Severus Snape and the Unrequited Love" (『セブルス・スネイプとその報われぬ愛』)の題名に取り替えてあげたい」と書かれているのを見つけました。本当に、この物語のポイントは、そこでしょうね。そう感じている人は、少なくないでしょう。
「迷宮ALICE」というブログの
「ハリポタ7巻ネタバレ感想??スネイプ先生について?」
http://yaplog.jp/darkflower/archive/198
の記事でも、スネイプについて、「ホント切なすぎるキャラだ・・・」とあります。ほうとうにそうですよね。「辛いなあ・・・と思います」とも書かれていますが、それも同感です。
もちろん、ルーナの存在感、ネビルの活躍など、気持ちがすっきりする場面もあったし、最後の土壇場の第36章で悪の最強魔女がジニーたちに杖を向けたときに、これまで一度も戦闘シーンに参加していなかったジニーたちの母ちゃんが突然飛び込んできて、一騎打ちで最強魔女を倒してしまうところなど、笑えるほど痛快だし、その母ちゃんを、いよいよ悪の権化たるヴォルデモートが攻撃しようとしたとき、死んだはずのハリーが透明マントを脱いで現れるという運びは、もう、ヒーローファンタジーのお約束そのものとも言えるでしょう。しかし、こういう定型的な枠組みの脇で、ひそかに、決して報われることのない"愛"に生涯をささげたスネイプの物語が語られていて、謎の奥に隠されていたその真実が、最終巻まで明かされなかったというところが、少なくとも、僕にとっては、一番、衝撃的でした。
もし、作者のメッセージが、上記のように、この世の偽りの告発であるのなら、第36章のあまりに定型的な枠組みも、ヒーローファンタジーや「正義」そのものへのアイロニーなのかもしれないし、ヴォルデモートの真の内面を描かないことの意味も、また、同様なのかもしれません。そんな風に感じるのは僕だけでしょうか?しかし、どう表現しようが、虚無感、虚脱感は払拭できません。物語が精巧にリアルに作られているため、それだけ、ショックは、大きいです。評論家的な冷静な感想記事を書かれている人もいるようですが、今の僕にはとてもできません。ほとんど悪態とも言えるような感想になってしまいすみません。しかし、こんな大作で、最後まで読もうと思えるようなものは、今後、二度と現れないでしょうから、こんなショックも、もう、味わうことはないでしょう。
なお、第7巻発売のしばらく前に、作者の発言の断片を根拠として、最終巻でハリーが死ぬのではないか、とか、ロン、ハーマイオニーのどちらかも死ぬのではないかという情報が流れ、朝日新聞にも情報が掲載されましたが、結局、3人とも死にませんでしたね。ハリーは、いわば冥途の入口まで行って、戻ってきましたね。作者も迷っていたのでしょうか?それとも、はらはらさせるための発言だったのか、あるいは、情報そのものが間違っていたのか、そのあたりは、わかりません。
その朝日新聞の記事については、
「吉岡家一同おとうさんのブログ」というブログの06年6月の記事
http://pokemon.at.webry.info/200606/article_31.html
に引用されています。
第5巻までは、すでに映画化もされていますが、今度は、第6作、第7作の映画を待ちましょう。悪態とも言える感想を書いてしまいましたが、映画は映画で、こちらも、また、見ようと思っています。
HPの雑記帳のコーナー
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/news.htm
にも、感想を少し書きましたが、スネイプの秘密が明かされる第33章で、あまりにもせつない感じに圧倒されてしまいました。訳者の松岡さんのあとがきにも、「私にとっての圧巻は三十三章だ」と書かれていますが、あそこで衝撃を受けた人は多いのではないでしょうか?第32章のラストでのスネイプの最期の言葉の意味も、第33章を読んで初めてわかるようになっているんですね。誤解を恐れずに言えば、「リリーは裏切り者ではないか?」と感じてしまいました。こんな感想を抱くのも、スネイプへの感情移入のためなのでしょう。複雑な思いで、自分の中では、気持ちの整理ができません。「一九年後」と題された終章の平和な世界の情景描写を読んでも、切なさが消えず、なんだか、空しささえ感じてしまいました。
この終章を「しあわせ」と呼ぶなら、しあわせなんて、まやかしだ!この世は裏切りそのものだ!もしかしたら、それこそが、作者のメッセージだったのではないか、とさえ思えてしまいます。そう考えれば、主要なこどもキャラの中で、最も魅力的と感じられるキャラだったルーナだけが終章に登場しないことも、初めて理解できるのです。ルーナが彼女自身の部屋の天井に描いていた絵と文字をハリーが見つけて感動する場面(第21章)で「ルーナに対して、熱いものが一気に溢れ出すのを感じた」のはハリーだけではないでしょう。
ルーナは、ジニーのともだちとして第5巻で初登場しましたが、第5巻が映画化されたときには、ルーナ登場の場面で、たしか、ハーマイオニーが他のともだちにルーナを紹介していて、その言葉が、日本語版で「不思議ちゃん」という歴史の浅い言葉になっていたと記憶していますが、ルーナには、ハーマイオニーやジニーには見えないセストラル(死に向き合った者のみに見える動物)が見えていたんですよね。
謎が明かされた「ハリー・ポッター」の世界が、これが世界というものなら、世界全体などを考えたら、あまりの空しさに、一歩も動けなくなってしまうでしょう。作者がダンブルドアの妹に与えた運命の残酷さなどは、語ることさえ避けたいほどです。
ほかの読者はどう感じているのだろうと、ネット検索をしてみたところ、
邦訳が出版される前の昨年12月に書かれていた
「少佐の記憶」というブログの中の
「『ハリー・ポッターと死の秘宝(第7巻)』ネタバレ感想」という記事
http://syousanokioku.at.webry.info/200712/article_6.html
の中に、シリーズの題名について「"Severus Snape and the Unrequited Love" (『セブルス・スネイプとその報われぬ愛』)の題名に取り替えてあげたい」と書かれているのを見つけました。本当に、この物語のポイントは、そこでしょうね。そう感じている人は、少なくないでしょう。
「迷宮ALICE」というブログの
「ハリポタ7巻ネタバレ感想??スネイプ先生について?」
http://yaplog.jp/darkflower/archive/198
の記事でも、スネイプについて、「ホント切なすぎるキャラだ・・・」とあります。ほうとうにそうですよね。「辛いなあ・・・と思います」とも書かれていますが、それも同感です。
もちろん、ルーナの存在感、ネビルの活躍など、気持ちがすっきりする場面もあったし、最後の土壇場の第36章で悪の最強魔女がジニーたちに杖を向けたときに、これまで一度も戦闘シーンに参加していなかったジニーたちの母ちゃんが突然飛び込んできて、一騎打ちで最強魔女を倒してしまうところなど、笑えるほど痛快だし、その母ちゃんを、いよいよ悪の権化たるヴォルデモートが攻撃しようとしたとき、死んだはずのハリーが透明マントを脱いで現れるという運びは、もう、ヒーローファンタジーのお約束そのものとも言えるでしょう。しかし、こういう定型的な枠組みの脇で、ひそかに、決して報われることのない"愛"に生涯をささげたスネイプの物語が語られていて、謎の奥に隠されていたその真実が、最終巻まで明かされなかったというところが、少なくとも、僕にとっては、一番、衝撃的でした。
もし、作者のメッセージが、上記のように、この世の偽りの告発であるのなら、第36章のあまりに定型的な枠組みも、ヒーローファンタジーや「正義」そのものへのアイロニーなのかもしれないし、ヴォルデモートの真の内面を描かないことの意味も、また、同様なのかもしれません。そんな風に感じるのは僕だけでしょうか?しかし、どう表現しようが、虚無感、虚脱感は払拭できません。物語が精巧にリアルに作られているため、それだけ、ショックは、大きいです。評論家的な冷静な感想記事を書かれている人もいるようですが、今の僕にはとてもできません。ほとんど悪態とも言えるような感想になってしまいすみません。しかし、こんな大作で、最後まで読もうと思えるようなものは、今後、二度と現れないでしょうから、こんなショックも、もう、味わうことはないでしょう。
なお、第7巻発売のしばらく前に、作者の発言の断片を根拠として、最終巻でハリーが死ぬのではないか、とか、ロン、ハーマイオニーのどちらかも死ぬのではないかという情報が流れ、朝日新聞にも情報が掲載されましたが、結局、3人とも死にませんでしたね。ハリーは、いわば冥途の入口まで行って、戻ってきましたね。作者も迷っていたのでしょうか?それとも、はらはらさせるための発言だったのか、あるいは、情報そのものが間違っていたのか、そのあたりは、わかりません。
その朝日新聞の記事については、
「吉岡家一同おとうさんのブログ」というブログの06年6月の記事
http://pokemon.at.webry.info/200606/article_31.html
に引用されています。
第5巻までは、すでに映画化もされていますが、今度は、第6作、第7作の映画を待ちましょう。悪態とも言える感想を書いてしまいましたが、映画は映画で、こちらも、また、見ようと思っています。