北村正裕BLOG

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2008年08月

『ハリー・ポッター』全7巻完結

J.K.ローリングの長編ファンタジー「ハリー・ポッター」シリーズ全七巻が、第7巻「ハリー・ポッターと死の秘宝」発売で完結し、邦訳も出そろって、読者としても、およそ十年に渡る読書の旅が完結しました。
HPの雑記帳のコーナー
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/news.htm
にも、感想を少し書きましたが、スネイプの秘密が明かされる第33章で、あまりにもせつない感じに圧倒されてしまいました。訳者の松岡さんのあとがきにも、「私にとっての圧巻は三十三章だ」と書かれていますが、あそこで衝撃を受けた人は多いのではないでしょうか?第32章のラストでのスネイプの最期の言葉の意味も、第33章を読んで初めてわかるようになっているんですね。誤解を恐れずに言えば、「リリーは裏切り者ではないか?」と感じてしまいました。こんな感想を抱くのも、スネイプへの感情移入のためなのでしょう。複雑な思いで、自分の中では、気持ちの整理ができません。「一九年後」と題された終章の平和な世界の情景描写を読んでも、切なさが消えず、なんだか、空しささえ感じてしまいました。
この終章を「しあわせ」と呼ぶなら、しあわせなんて、まやかしだ!この世は裏切りそのものだ!もしかしたら、それこそが、作者のメッセージだったのではないか、とさえ思えてしまいます。そう考えれば、主要なこどもキャラの中で、最も魅力的と感じられるキャラだったルーナだけが終章に登場しないことも、初めて理解できるのです。ルーナが彼女自身の部屋の天井に描いていた絵と文字をハリーが見つけて感動する場面(第21章)で「ルーナに対して、熱いものが一気に溢れ出すのを感じた」のはハリーだけではないでしょう。
ルーナは、ジニーのともだちとして第5巻で初登場しましたが、第5巻が映画化されたときには、ルーナ登場の場面で、たしか、ハーマイオニーが他のともだちにルーナを紹介していて、その言葉が、日本語版で「不思議ちゃん」という歴史の浅い言葉になっていたと記憶していますが、ルーナには、ハーマイオニーやジニーには見えないセストラル(死に向き合った者のみに見える動物)が見えていたんですよね。
謎が明かされた「ハリー・ポッター」の世界が、これが世界というものなら、世界全体などを考えたら、あまりの空しさに、一歩も動けなくなってしまうでしょう。作者がダンブルドアの妹に与えた運命の残酷さなどは、語ることさえ避けたいほどです。

ほかの読者はどう感じているのだろうと、ネット検索をしてみたところ、
邦訳が出版される前の昨年12月に書かれていた
「少佐の記憶」というブログの中の
「『ハリー・ポッターと死の秘宝(第7巻)』ネタバレ感想」という記事
http://syousanokioku.at.webry.info/200712/article_6.html
の中に、シリーズの題名について「"Severus Snape and the Unrequited Love" (『セブルス・スネイプとその報われぬ愛』)の題名に取り替えてあげたい」と書かれているのを見つけました。本当に、この物語のポイントは、そこでしょうね。そう感じている人は、少なくないでしょう。
「迷宮ALICE」というブログの
「ハリポタ7巻ネタバレ感想??スネイプ先生について?」
http://yaplog.jp/darkflower/archive/198
の記事でも、スネイプについて、「ホント切なすぎるキャラだ・・・」とあります。ほうとうにそうですよね。「辛いなあ・・・と思います」とも書かれていますが、それも同感です。

もちろん、ルーナの存在感、ネビルの活躍など、気持ちがすっきりする場面もあったし、最後の土壇場の第36章で悪の最強魔女がジニーたちに杖を向けたときに、これまで一度も戦闘シーンに参加していなかったジニーたちの母ちゃんが突然飛び込んできて、一騎打ちで最強魔女を倒してしまうところなど、笑えるほど痛快だし、その母ちゃんを、いよいよ悪の権化たるヴォルデモートが攻撃しようとしたとき、死んだはずのハリーが透明マントを脱いで現れるという運びは、もう、ヒーローファンタジーのお約束そのものとも言えるでしょう。しかし、こういう定型的な枠組みの脇で、ひそかに、決して報われることのない"愛"に生涯をささげたスネイプの物語が語られていて、謎の奥に隠されていたその真実が、最終巻まで明かされなかったというところが、少なくとも、僕にとっては、一番、衝撃的でした。
もし、作者のメッセージが、上記のように、この世の偽りの告発であるのなら、第36章のあまりに定型的な枠組みも、ヒーローファンタジーや「正義」そのものへのアイロニーなのかもしれないし、ヴォルデモートの真の内面を描かないことの意味も、また、同様なのかもしれません。そんな風に感じるのは僕だけでしょうか?しかし、どう表現しようが、虚無感、虚脱感は払拭できません。物語が精巧にリアルに作られているため、それだけ、ショックは、大きいです。評論家的な冷静な感想記事を書かれている人もいるようですが、今の僕にはとてもできません。ほとんど悪態とも言えるような感想になってしまいすみません。しかし、こんな大作で、最後まで読もうと思えるようなものは、今後、二度と現れないでしょうから、こんなショックも、もう、味わうことはないでしょう。

なお、第7巻発売のしばらく前に、作者の発言の断片を根拠として、最終巻でハリーが死ぬのではないか、とか、ロン、ハーマイオニーのどちらかも死ぬのではないかという情報が流れ、朝日新聞にも情報が掲載されましたが、結局、3人とも死にませんでしたね。ハリーは、いわば冥途の入口まで行って、戻ってきましたね。作者も迷っていたのでしょうか?それとも、はらはらさせるための発言だったのか、あるいは、情報そのものが間違っていたのか、そのあたりは、わかりません。
その朝日新聞の記事については、
「吉岡家一同おとうさんのブログ」というブログの06年6月の記事
http://pokemon.at.webry.info/200606/article_31.html
に引用されています。

第5巻までは、すでに映画化もされていますが、今度は、第6作、第7作の映画を待ちましょう。悪態とも言える感想を書いてしまいましたが、映画は映画で、こちらも、また、見ようと思っています。

エヴァンゲリオン新作映画(ヱヴァンゲリヲン新劇場版、序・破・急+完結)遅れ具合は

当初の発表では08年公開予定だった「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」第2部ですが、
「エヴァ緊急ニュース」というブログの
http://evangeliwon.blog107.fc2.com/blog-entry-481.html
にも出ている通り、先月の朝日新聞のアニメ関係記事の中で、「来年公開予定」というという表現が使われていたので、「ああ、やっぱり、遅れているんだな」と、思いました。オリジナル版のときの経過から見ても、ある程度の遅れについては、多くのエヴァファンの人たちが予想していたことでしょうが、
「序破急」というブログの
http://johakyu.net/archives/2008/07/2008-07-30-000861.php
には、朝日新聞に情報源について問い合わせた結果、「GAINAX社からの情報」であるとの回答メールを得たという記事が出ています。
また、
「みんなのエヴァンゲリオン(ヱヴァ)ファン」というブログの
http://neweva.blog103.fc2.com/blog-entry-264.html
にも、関連情報があります。

2007年2月の記事
http://masahirokitamura.blog.drecom.jp/archive/30
にも書いたように、
2006年9月に発表されたときには、
2007年初夏=前編 REBUILD OF EVANGELION:01
2008年陽春=中編 REBUILD OF EVANGELION:02
2008年初夏=後編+完結編 REBUILD OF EVANGELION:03、04
と、なっていたので、昨年秋に公開された第1部(序)が、すでに半年遅れ、そして、第2部(破)は、2009年公開となると、1年遅れということになりますね。当初の発表通りなら、もう、今ごろ、第4部まで完結しているはずだったのですが、この調子だと、完結は、2年遅れの2010年あたりでしょうか?

〔ヱヴァンゲリオン新劇場版公式サイト〕
http://evangelion.co.jp/

〔当ブログ内の関連記事〕
http://masahirokitamura.blog.drecom.jp/archive/49
http://masahirokitamura.blog.drecom.jp/archive/31
など

〔HP内の新世紀エヴァンゲリオンコーナー〕
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/eva.htm

絵本作家、酒井駒子さんの『金曜日の砂糖ちゃん』が"大人の絵本"なら

先日、ジュンク堂書店池袋本店の児童書売り場をのぞいてみたら、僕の新刊絵本『ガラスの中のマリー』が、「大人向け絵本」というコーナーにはいっているのを見つけて、「やっぱり!」と思ってしまいました。
ネット書店のセブンアンドワイのページ
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32108766でも、
「本>文芸>詩、詩集>画文集」というカテゴリー
にはいっていて、「子ども」というカテゴリーにははいっていません。
僕は、子どもにも楽しめる文学が児童文学だと思っていて、書いている本人がおもしろくなければ話しにならないし、大人がこどもの「ために」書くなどという発想はおもしろくない、と思っているので、「こどものため」という意識の強く出ているような作品とはどうしても異質なものになり、以前から「大人の童話」と呼ばれるのも無理はないかな、と思っています。ただ、僕の作品をわざわざ「大人向け」と呼ばねばならないほど、現在の児童文学が、「こどものため」意識の強いものに偏っているのではないかと感じてしまうので、「大人向け」とか「大人の童話」とか「大人の絵本」と呼ばれることには複雑な思いもあります。
しかし、上記のセブンアンドワイの
「本>文芸>詩、詩集>画文集」というカテゴリー
について言えば、僕自身、「詩のような童話」を理想としているので、決して違和感はないし、それに、絵本作家、酒井駒子さんの傑作『金曜日の砂糖ちゃん』も同じカテゴリーにはいっているのを見つけて、むしろ、光栄とも感じました。酒井さんの傑作が「大人の絵本」なら、僕の絵本も、同じように呼ばれるのは、むしろ光栄と思うべきでしょう。
(セブンアンドワイの情報ページ=
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31189400
この酒井駒子さんの絵本『金曜日の砂糖ちゃん』は、文字が少なく、文章よりも、あくまでも絵が中心の本だと言ってよいと思いますが、絵に添えられた短い詩のような文章が、いわゆる児童文学作家にありがちな「こどものため」意識から自由な詩になっていて、今日の「児童書」の世界の中では、貴重な一冊だと思います。おすすめの一冊と言ってもよいでしょう。
絵本でありながら、3編の短い作品を収録しているという形式もユニークですが、たとえば、その3つめの作品「夜と夜のあいだに」という作品は、「夜と夜の あいだに 目を さました 子どもは…」という書き出しもユニークなら、「扉を あけて それきり もどっては 来ないのでした」というあっけらかんとしたラストの見事さは、最近の他の本ではなかなか見つからないものです。
55ページには、「扉を あけて」という横書きの言葉が中央にあるだけで、見開きの隣のページには、少女が、鳥かごの扉を開けている絵。「扉」とは、このことかと、思って、次のページへ行くと、大人のベッドの足下をすり抜ける見開きの絵。次の見開きは、家の扉を開けて、外の絵本のような世界(本当に絵本なんですけど)を覗いている絵。そして、62ページに、鳥かごから外をうかがう小鳥。そして、隣の61ページに、上記のラストの文。
ここまで読むと、55ページの文の「扉」は、隣のページの鳥かごの扉ではなく、2つ先の見開きにある家の扉だったのかとも思える一方、最後の60ページの絵にあるのは、扉の開いた鳥かごで、少女は、確かに、これを開けたのでしょうから、文にある「扉」は、ふたつの扉の両方を指しているように感じられます。
「かごの中の鳥」のその扉を開け放した少女は、夢の世界に旅立ったのか?それとも、大人になってしまって、絵本の世界にも戻れなくなってしまったのか?そう言えば、絵の中で、家の扉を開けた少女は、夢のような外の世界には、一歩も足を踏み出してはいないのです。そして、ラストの絵の鳥も、開いた扉から外を眺めるだけなのです。
すべてが読者の想像にゆだねられるこの魅力的なラストは、絵と文とのコンビネーションによってのみ可能であったと言ってもよいでしょう。

例えば、ロマン派時代のドイツの作家ホフマンの「くるみわり人形とねずみの王様」では、主人公の少女マリーは、ラストで、人形の国へ旅立ったまま、もう、両親の元へは戻ってきません。そして、「マリーはいまでも、あのきらめくクリスマスの森や、すきとおったマジパンのお城のある国で、王妃さまとしてくらしているということです。そしてこのふしぎな国のすばらしい光景は、この世のふしぎを見る目をもっているひとならば、だれでも、いつでも、見ることができるのです。これが、くるみわり人形とねずみの王様のお話です」(山本定祐訳)と、結ばれているのですが、こういう物語は、現代においては、なかなか見あたらず、それどころか、このホフマン作品を原作とするチャイコフスキー作曲のバレエ「くるみ割り人形」では、プティパの台本ではお菓子の国のシーンで幕となるようになっていたものが、ソ連時代に、大きく改変され、マリー(ロシアではマーシャ)が自分の部屋で目を覚ますというエンディングになって、「みんな夢でした」といういわゆる夢落ちのような幕切れになってしまい、今日でも、それを踏襲しているバレエ団が多いので、いつも、それを、とても残念なことだと思っているのですが、酒井さんの「夜と夜のあいだに」では、何のためらいもなく「扉を あけて それきり もどっては 来ないのでした」と結ばれ、しかも、物語全体が、わずか一文で成り立っているので、これは驚きです。

安房直子さんの童話「銀のくじゃく」では、幻の銀のくじゃくに憧れる四人のくじゃくのお姫さまが、銀色の波へむかってとび立ち、あとに残されたくじゃくの王国が滅亡するというエンディングで、これなどは、やはり、現代の児童文学の世界では貴重な滅亡の美を描く傑作ですが、これとて、40ページも費やされておて、簡潔さという点では、酒井駒子さんの「夜と夜のあいだに」のわずか一文という短さにはかなわないないと言わざるを得ませんね。

『金曜日の砂糖ちゃん』の冒頭の表題作では、姿を消した金曜日の砂糖ちゃんを護るべく、「ただ カマキリだけは いつまでも 鎌を ふりあげ ふりあげ しておりましたが」と結ばれますが、そもそも、金曜日の砂糖ちゃんという女の子は、この世の存在のようには見えません。迎えにくるおかあさんも幽霊のよう。それを思うと、カマキリの思いの切なさが心にしみるようですが、でも、それが、「生きる」ということなのかなと、思ってしまいます。この物語の主人公はカマキリだと、僕には、思えます。

酒井さんの場合は、絵が多くを語っているので、酒井さんのような才能豊かな画家がうらやましいとも感じます。
先日、『ガラスの中のマリー』の版元の三一書房の編集者からのメールに「酒井駒子さんのポストカードを社員が持っていた」という知らせがありましたが、かなり人気があるのでしょうね。
僕の場合は、文章を中心とした創作をやっていて、今回の『ガラスの中のマリー』の場合は、下手な絵を重ねたりデジタル加工したり、そして、写真を組み合わせたりと、ビジュアル面では、かなり苦労してしまいました。

なお、酒井駒子さんの『金曜日の砂糖ちゃん』については、

「砂の上の文字群2」というブログの
http://chibinekono.blog44.fc2.com/blog-entry-778.html

「胡桃と本と。」というブログの
http://kurumi3.tea-nifty.com/library/2006/08/__bf56.html

「この本借りたよ&エトセトラ♪」というブログの
http://blogs.yahoo.co.jp/ctenohira/13506850.html
などに、いろいろな感想が出ています。

〔HP内の関連ページ〕
絵本『ガラスの中のマリー』出版情報
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/marie-e.htm

「くるみ割り人形」の基礎知識
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/nutcracker-g.htm

安房直子童話作品集と収録作品
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/awa.htm

パリ国立オペラ、セラーズ演出「トリスタンとイゾルデ」東京公演

先日、7月31日、東京・渋谷のオーチャドホールで、パリ国立オペラ(パリオペラ座)初来日公演最終日の「トリスタンとイゾルデ」(セラーズ演出、ヴィオラ映像、インガルス照明、ビシュコフ指揮)の公演を見てきました。
この公演は、映像を使った斬新な演出ということで話題になっていて、その映像については、すでに、紹介記事がネット上にもでているようなので、ここでは、あえて、それ以外の部分で注目に値すると感じた点を中心に、いくつか、気づいたことを書いておきます。
まず、演出で、一番、注目に値すると感じたのは、第1幕のラストで、トリスタンが、「欺まんに満ちた栄光よ!」と歌う場面で、客席がうっすらと明るくなり、幕切れとともに、その明かりが、舞台の明かりとともに消えるという演出です。ここでは、一瞬、客席そのものが、舞台の一部となり、「欺まんに満ちた栄光よ!」というトリスタンの台詞が観客に向けられるという、いわば、挑戦的な演出になっていました。映像が目立ちすぎて、こういう演出があまり注目されていないもしれませんが、僕は、この演出を、映像以上に挑戦的な演出だと感じました。
次に、第2幕でブランゲーネが歌う警告の歌ですが、通常、舞台裏や物陰で歌われるこの歌を、今回、ブランゲーネ役のグバノヴァは、オーチャードホールの客席側の左の壁の上方にあるバルコニーでこれを歌っていました。このため、この美しい歌が、客席全体に響き渡り、音響の面でとてもよい効果を上げていたと思います。歌手のグバノヴァも、気品のある美しい声で、今回の歌手陣の中で、一番よい出来だったのではないかと思います。そして、この場面、舞台背景には、森の木々の上に輝く月が映し出されていましたが、舞台の上では、照明が暗くなり、横たわるトリスタンとイゾルデの左手から、ふたりの男(マルケ王とメロートか)が近づいてきて、ふたりをのぞき込むという演出になっているのですが、これは、ブランゲーネの心の中の世界なのかもしれません。オーチャードホールの客席上方のバルコニーのような造形物は、これまで、単なる飾りだと思っていたのですが、こんな使い方があったとは!パリのバスッティーユ劇場で上演するときには、どのようにしているのでしょうか?僕は、パリ・ガルニエ宮(旧オペラ座)では、バレエ公演を見たことがありますが、新オペラ座(バスティーユ劇場)での観劇経験がないので、バスティーユ劇場の客席部分の構造がわかりませんが、もしかしたら、オーチャードホールの方が、本拠地よりも、今回の演出に向いていたのではないでしょうか?その他、水夫や舵取りが2階席で歌ったり、管楽器の一部が2階席や3階席で演奏して、立体音を出していましたが、これらは、特に驚くような仕掛けではないでしょう。かつて、東京文化会館でティーレマンが「ローエングリン」を指揮したときには、第3幕での国王出陣の音楽のときに、金管楽器が、4階席で演奏していましたが、こうした客席での演奏は、珍しくはないようです。
音楽面では、ブランゲーネ役のグバノヴァがよかったということは、今、書いた通りですが、それに対して、トリスタン役のフォービスは、声量不足が否めず、余裕のない歌唱になってしまって、音楽の味を充分に出し切れていなかったと感じました。イゾルデ役のウルマーナは、特に悪いところはないと思いましたが、ラストの「愛の死」では、充分に音楽の味を出し切れていなかったと感じました。しかし、その原因は、ウルマーナの歌唱ではなく、ビシュコフの指揮にあるように感じました。というのは、この「愛の死」の場面で、ビシュコフのテンポが速くなり、また、オーケストラの音量をかなり上げてしまったのです。これでは、歌手がじっくりと歌おうとしても、無理ではないかと感じました。というわけで、ここは、昨年のバレンボイム指揮による公演でのマイヤーの歌唱などには及ばなかったというのが、僕の感想です。

なお、東京公演より先に行われた兵庫公演の感想記事が、
「無弦庵」というブログの
http://mu-gen-an.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_5152.html
や、
「オペラの夜」というブログの
http://blog.goo.ne.jp/operanoyoru/e/97b4344f36afce263b263c05dcd344bf
にあります。
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