先日、ジュンク堂書店池袋本店の児童書売り場をのぞいてみたら、僕の新刊絵本『ガラスの中のマリー』が、「大人向け絵本」というコーナーにはいっているのを見つけて、「やっぱり!」と思ってしまいました。
ネット書店のセブンアンドワイのページ
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32108766でも、
「本>文芸>詩、詩集>画文集」というカテゴリー
にはいっていて、「子ども」というカテゴリーにははいっていません。
僕は、子どもにも楽しめる文学が児童文学だと思っていて、書いている本人がおもしろくなければ話しにならないし、大人がこどもの「ために」書くなどという発想はおもしろくない、と思っているので、「こどものため」という意識の強く出ているような作品とはどうしても異質なものになり、以前から「大人の童話」と呼ばれるのも無理はないかな、と思っています。ただ、僕の作品をわざわざ「大人向け」と呼ばねばならないほど、現在の児童文学が、「こどものため」意識の強いものに偏っているのではないかと感じてしまうので、「大人向け」とか「大人の童話」とか「大人の絵本」と呼ばれることには複雑な思いもあります。
しかし、上記のセブンアンドワイの
「本>文芸>詩、詩集>画文集」というカテゴリー
について言えば、僕自身、「詩のような童話」を理想としているので、決して違和感はないし、それに、絵本作家、酒井駒子さんの傑作『金曜日の砂糖ちゃん』も同じカテゴリーにはいっているのを見つけて、むしろ、光栄とも感じました。酒井さんの傑作が「大人の絵本」なら、僕の絵本も、同じように呼ばれるのは、むしろ光栄と思うべきでしょう。
(セブンアンドワイの情報ページ=
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31189400
この酒井駒子さんの絵本『金曜日の砂糖ちゃん』は、文字が少なく、文章よりも、あくまでも絵が中心の本だと言ってよいと思いますが、絵に添えられた短い詩のような文章が、いわゆる児童文学作家にありがちな「こどものため」意識から自由な詩になっていて、今日の「児童書」の世界の中では、貴重な一冊だと思います。おすすめの一冊と言ってもよいでしょう。
絵本でありながら、3編の短い作品を収録しているという形式もユニークですが、たとえば、その3つめの作品「夜と夜のあいだに」という作品は、「夜と夜の あいだに 目を さました 子どもは…」という書き出しもユニークなら、「扉を あけて それきり もどっては 来ないのでした」というあっけらかんとしたラストの見事さは、最近の他の本ではなかなか見つからないものです。
55ページには、「扉を あけて」という横書きの言葉が中央にあるだけで、見開きの隣のページには、少女が、鳥かごの扉を開けている絵。「扉」とは、このことかと、思って、次のページへ行くと、大人のベッドの足下をすり抜ける見開きの絵。次の見開きは、家の扉を開けて、外の絵本のような世界(本当に絵本なんですけど)を覗いている絵。そして、62ページに、鳥かごから外をうかがう小鳥。そして、隣の61ページに、上記のラストの文。
ここまで読むと、55ページの文の「扉」は、隣のページの鳥かごの扉ではなく、2つ先の見開きにある家の扉だったのかとも思える一方、最後の60ページの絵にあるのは、扉の開いた鳥かごで、少女は、確かに、これを開けたのでしょうから、文にある「扉」は、ふたつの扉の両方を指しているように感じられます。
「かごの中の鳥」のその扉を開け放した少女は、夢の世界に旅立ったのか?それとも、大人になってしまって、絵本の世界にも戻れなくなってしまったのか?そう言えば、絵の中で、家の扉を開けた少女は、夢のような外の世界には、一歩も足を踏み出してはいないのです。そして、ラストの絵の鳥も、開いた扉から外を眺めるだけなのです。
すべてが読者の想像にゆだねられるこの魅力的なラストは、絵と文とのコンビネーションによってのみ可能であったと言ってもよいでしょう。

例えば、ロマン派時代のドイツの作家ホフマンの「くるみわり人形とねずみの王様」では、主人公の少女マリーは、ラストで、人形の国へ旅立ったまま、もう、両親の元へは戻ってきません。そして、「マリーはいまでも、あのきらめくクリスマスの森や、すきとおったマジパンのお城のある国で、王妃さまとしてくらしているということです。そしてこのふしぎな国のすばらしい光景は、この世のふしぎを見る目をもっているひとならば、だれでも、いつでも、見ることができるのです。これが、くるみわり人形とねずみの王様のお話です」(山本定祐訳)と、結ばれているのですが、こういう物語は、現代においては、なかなか見あたらず、それどころか、このホフマン作品を原作とするチャイコフスキー作曲のバレエ「くるみ割り人形」では、プティパの台本ではお菓子の国のシーンで幕となるようになっていたものが、ソ連時代に、大きく改変され、マリー(ロシアではマーシャ)が自分の部屋で目を覚ますというエンディングになって、「みんな夢でした」といういわゆる夢落ちのような幕切れになってしまい、今日でも、それを踏襲しているバレエ団が多いので、いつも、それを、とても残念なことだと思っているのですが、酒井さんの「夜と夜のあいだに」では、何のためらいもなく「扉を あけて それきり もどっては 来ないのでした」と結ばれ、しかも、物語全体が、わずか一文で成り立っているので、これは驚きです。

安房直子さんの童話「銀のくじゃく」では、幻の銀のくじゃくに憧れる四人のくじゃくのお姫さまが、銀色の波へむかってとび立ち、あとに残されたくじゃくの王国が滅亡するというエンディングで、これなどは、やはり、現代の児童文学の世界では貴重な滅亡の美を描く傑作ですが、これとて、40ページも費やされておて、簡潔さという点では、酒井駒子さんの「夜と夜のあいだに」のわずか一文という短さにはかなわないないと言わざるを得ませんね。

『金曜日の砂糖ちゃん』の冒頭の表題作では、姿を消した金曜日の砂糖ちゃんを護るべく、「ただ カマキリだけは いつまでも 鎌を ふりあげ ふりあげ しておりましたが」と結ばれますが、そもそも、金曜日の砂糖ちゃんという女の子は、この世の存在のようには見えません。迎えにくるおかあさんも幽霊のよう。それを思うと、カマキリの思いの切なさが心にしみるようですが、でも、それが、「生きる」ということなのかなと、思ってしまいます。この物語の主人公はカマキリだと、僕には、思えます。

酒井さんの場合は、絵が多くを語っているので、酒井さんのような才能豊かな画家がうらやましいとも感じます。
先日、『ガラスの中のマリー』の版元の三一書房の編集者からのメールに「酒井駒子さんのポストカードを社員が持っていた」という知らせがありましたが、かなり人気があるのでしょうね。
僕の場合は、文章を中心とした創作をやっていて、今回の『ガラスの中のマリー』の場合は、下手な絵を重ねたりデジタル加工したり、そして、写真を組み合わせたりと、ビジュアル面では、かなり苦労してしまいました。

なお、酒井駒子さんの『金曜日の砂糖ちゃん』については、

「砂の上の文字群2」というブログの
http://chibinekono.blog44.fc2.com/blog-entry-778.html

「胡桃と本と。」というブログの
http://kurumi3.tea-nifty.com/library/2006/08/__bf56.html

「この本借りたよ&エトセトラ♪」というブログの
http://blogs.yahoo.co.jp/ctenohira/13506850.html
などに、いろいろな感想が出ています。

〔HP内の関連ページ〕
絵本『ガラスの中のマリー』出版情報
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/marie-e.htm

「くるみ割り人形」の基礎知識
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/nutcracker-g.htm

安房直子童話作品集と収録作品
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/awa.htm