成井豊脚本・演出の舞台『かがみの孤城』(辻村深月原作)、8月29日(土)13:00開演のサンシャイン劇場での公演、見てきました。
500ページを超える小説を2時間の舞台で表現しようというのですから、大幅な省略は当然ですが、特に、この原作には場面転換が非常に多いので、そこをどうするのか注目していましたが、大きな舞台装置としては、クライマックスシーンで重要な背景の大時計が固定され、これがクライマックスシーンで前にずれて、役割を終えた後はもとの位置に戻るだけで、いわゆる舞台転換は一切なし。脇には、城をイメージしたセットがあるほか、床の上には、二つのテーブル以外には、七人分の大きな鏡の枠があるだけで、安西こころ(生駒里奈)用の鏡の枠は、玄関の役割も果たすなど、最小限の装置での簡潔な表現に徹した舞台でした。こころの家でのシーンや、学校でのシーンなどは、背景の城のセットを暗くして、舞台前景で演じられ、ナレーション役を喜多嶋先生(原田樹里)、伊田先生(多田直人)、真田美織(澤田美紀)などが舞台脇で演じていて、最後のほうでは、オオカミさままでナレーションをやってしまうという総動員体制でした。

演劇ならではと感じたのは、ダンスシーン。特に、喜多嶋先生が左奥、こころの母(今回の劇では「望美」、渡邉安里)が右奥の椅子に座ったまま踊るシーンが、なぜか印象的で、その直後に、リオンが右手前に現れ、左奥にオオカミさまが現れるシーンは、照明の効果もあって、さらに、印象的でした。照明と言えば、鏡が光るシーンも、すべて照明で表現されていました。

*以下、ネタバレ注意!

原作小説の「三月」の章の怒涛の展開の中では、六人が狼に食われた場所が『七ひきの子やぎ』の物語に忠実でしたが、今回の劇では、『七ひきの子やぎ』の場所と一致せず、また、一匹目、二匹目、という数え方は、こころが記憶を読み取る順番につけられていました。例えば、小説では、アキ(稲田ひかる)が隠れたのはクローゼットの中でしたが、今回の劇では、クローゼットが登場しておらず、マサムネ(山本沙羅)が狼に食われたことになっていた台所の戸棚も、今回は登場していないので、仕方がないということかもしれませんが、階段の下とか、手すりのかげと言った場所で代用されていました。
「エピローグ」は、アキ、井上晶子が、中学3年留年後を語り始め、その脇に、左奥から登場した喜多嶋先生が並んで立ち、「苗字が井上から喜多嶋に変わって」というあたりから喜多嶋先生が語りを引き継ぐという形でした。
ラストシーンの、喜多嶋先生と安西こころの対面シーンでは、背景のアキのかがみの枠の中に、アキが登場し、「大丈夫だよ」という声は、アキが、こころにかけていました。小説では、喜多嶋晶子の胸の中で安西こころの声がするというイメージでしたが、舞台となると、今回のような演出も面白いと思いました。
こころの願いが「真田美織が、この世から消えますように」というものであることがこころ自身によって語られる場面のナレーションが真田美織であったり、その真田美織と同様、的外れな認識しか持てずにかわいそうな感じもする伊田先生も、ナレーションで活躍し、原作にない要素として、伊田先生のクラスで給食の余りの分け方を決めるのにドッジボールをすることにいなってしまったことを伊田先生がこころに報告する場面があり、それで、クラスのドッジボールの実力が上がったという笑えるような話が出たときには、本当に、客席から笑いが起こっていました(全員、マスク着用ですが)。
フウカの母親(白い面をつけた俳優のひとりが演じる役)のイメージが、十七年版単行本のイメージに比べると、やや冷たい感じになってしまっていたと思いますが、短い時間でフウカの家庭の事情を表現するのは難しいのでしょう。
スバルの「ナガヒサ」という苗字が判明したとき、小説では、マサムネは、特に、反応していませんが、今回の劇では、「ナガヒサ?」と、反応していました。「プロフェッサー・ナガヒサ」は、マサムネの憧れのゲームクリエーターですから、反応して当然でしょう。しかも、スバルは、「ゲーム作る人になる」と言っているわけですから。小説で登場する「ナガヒサロクレン」という名は、今回の劇では出ませんでしたが、「プロフェッサー・ナガヒサ」は、スバルの未来の姿なのかもしれないという想像がふくらむ場面です。
オオカミさまが、アキを、義父からの暴力にさらられるピンチのときに手鏡でアキを救出するシーンは、アキの方を向いて手鏡を高く掲げ、そこに照明があたり、暗転の後、再び明るくなった場面に、アキとオオカミさまの二人が城にいるシーンが現れるという演出でした。この場面、小説では、義父による性的暴力の危機を強く示唆する描写になっていましたが、今回の劇では、義父がアキに、「酒、買ってこい!」などと発言するなど、小説ほど切迫した描写にはなっていませんでした。
クリスマス会でのリオン(溝口琢也)からオオカミさまへのプレゼントは、小説の通り、「小さな包み」。手で握れるくらいの大きさでした。その中身、リオンの贈り物は何だったのでしょうか? 小説では、オオカミさまの衣装が変わるタイミングについて詳しい記述があり、オオカミさまの衣装は、リオンの姉の実生がかつて遊んでいたドールハウスの人形用のドレスかモデルになっていたようなので、リオンの贈り物がミオのドールハウスの人形用の衣装なのではないかという想像が働きますが、今回の演出は、オオカミさまの衣装を強調するものではなかったので、この演出では、リオンの贈り物がドレスだったのではないかとい想像は働きにくいですね。今回、ミオを演じたのは石森美咲。プログラムでは、「ミオ」役となっていて、「オオカミさま」役の記載がないのは、小説を読んでいない人もいることを想定しての、ネタバレ回避のための配慮でしょう。
オオカミさまの声は、ややリバーブがかかったように聞こえていたので、もしかすると、個別の小型マイクで拾った声にPA装置でリバーブをかけていたのかもしれません。面をつけているし、他の役とは違うかなり特殊な役ですから、音声処理も特別扱いになるのは妥当なところだと思いました。
小説では、城が閉まるシーンで、「こっちを向いた”オオカミさま”が、最後に自分の狼面をゆっくりと外し、理音に向けて微笑んだ―ように見えた」となっていますが、今回の劇では、リオンが、鏡を通って消えて行くときに、オオカミさまが、無言で、リオンの鏡に走り寄るという演出でした。いい演出だと思いました。

一方、惜しいなあと思ってしまうところもありました。
例えば、序盤の、こころのスクール見学の場面。小説では、責任者らしい人(鮫島先生ではないと思いますが…)の声が「中学校に入ったことで急に溶けこめなくなる子は、珍しくないですよ。特に、第五中は学校再編の合併のあおりを受けて大きくなった中学校ですからで」と母親に言うのが部屋の中から聞こえ、こころは、「私は、だから、”溶け込めなかった”わけじゃない。そんな、生ぬるい理由で、行けなくなったわけじゃない」、「この人は、私が何をされたか知らないんだ」と思うのに対して、こころを連れた喜多嶋先生が、毅然と「失礼します」とドアを開けることになっていて、喜多嶋先生が、他の先生と一味違うことが、すでに、この場面でも出ているのですが、今回の劇では、「責任者らしい先生」の役が省略されているためか、「中学校に入ったことで急に溶けこめなくなる子は、珍しくないですよ」という台詞が、何と喜多嶋先生の台詞になってしまっていました。そもそも、この小説では、「類型化」に対する徹底的な拒否の姿勢が、ひとつの重要なポイントになっているので、こういう台詞のつけかえには慎重であってほしかったと思いました。
また、マサムネたちがゲームをするときに使っているディスプレイが、十七年版の小説では、マサムネが自宅の倉庫から持ってきたという古いブラウン管のテレビになっているのに対して、今回の劇では、液晶ディスプレイになっていて、これでは、液晶ディスプレイを知らないはずのスバルが疑問を持つはずで、そうなれば、そこで時間のズレが発覚してしまいます。二〇一三年に雑誌連載が始まったころは、まだ、時間のズレの設定がなかったため、連載版では、今回の劇と同じように液晶画面が使われていますが、時間のズレの設定と結末が決まった時点で、連載版の序盤との整合性がとれなくなり、そのため、連載を終了して、最初から書き直して完成させたのが十七年版単行本の『かがみの孤城』であり、テレビ画面が液晶からブラウン管に変わったのも、連載を終了して行った書き換えのひとつですが、結果的に、今回の劇では、年代のズレが考慮されていなかった連載版の画面に戻ってしまっていました。もちろん、スバルやアキが、液晶画面に興味を示さなかったと考えればよいと言えばそれまでですが、ブラウン管のテレビの模型を作ることは、今回の舞台のセットを作る技術があれば、さほど難しいことではないだろうと思うし、マサムネに、「古いテレビを持ってきた」と一言言わせることも難しくはないはずだと思うので、ここも、ちょっと惜しいと思いました。
オオカミさまが、アキを、義父からの暴力の危機から救出した後、「私―、ここに住んじゃダメかな」と言うアキに対して、オオカミさまが「無理だ」と言う場面は、小説では、「アキを手を振りほどかず、”オオカミさま”が、手を握っていてくれる。そのことがとてもうれしかった」というアキの心情描写がありますが、今回の劇では、オオカミさまは、「無理だ」と言ったとき、すでに、アキから手を離してしまっていて、すぐに舞台右手に退場してしまい、ここは、もう少し、アキの手を握っていてほしかったと思いました。
リオンの記憶の場面の後に、小説では、神様とミオの会話と思われるミオの記憶がはいってきて、僕は、結構、好きなところなのですが、こうした、いわば細かい場面が、今回のような時間の制約のある舞台では削除されてしまうのはやむを得ないことなのかもしれませんね。同じく、小説の地の文には、「名言」というより「名文」と言えそうな好きな分が結構あって、例えば、こころが東条萌と最後に別れた直後の一文、「私がその分、覚えている。萌ちゃんと今日、友達だったことを」(十七年版430ページ1行目)は、偶数ページの一行目に置かれて、さらに効果が出ていて、これは、特に、好きな分のひとつなのですが、劇では、直前のこころと萌の台詞は出ても、この地の文はでませんでしたね。
今回、出演者がマウスシールド(透明マスク)を着用して演技をするという異例の舞台。最前列を空席にして、そこに透明シートを設置し、2列目以降も、前後左右を空け、通常の半分しか入場できないという制限のある公演でした。ぎりぎりまで公演ができるのかどうか危ぶまれる情勢でしたが、そういう中でもなんとか公演を実現させようという関係者の熱意を感じました。急な代役となったマサムネ役の山本沙羅も、代役とは思えない活躍ぶりで、速い台詞の多い役をしっかりとこなしていました。

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2020年8月29日、サンシャイン劇場

〔舞台『かがみの孤城』公式ホームページ】
http://napposunited.com/kagaminokojo/

〔北村正裕ホームページ紹介サイト】
https://masahirokitamura33.wixsite.com/masahirokitamura

【2020. 9. 8追記】
制作会社、NAPPOS UNITREDのツイート
https://twitter.com/NapposUnited/status/1302503873920135171
に、舞台写真が載っています。

【2020.12.22追記】劇場で予約しておいた舞台映像DVD(9月2日の公演の映像、発売元=NAPPOS UNITED)が届きました。8月29日の舞台での伊田先生のドッジボールネタが、自画像ネタ(先生がこころの代わりに自分の自画像を提出しておいたが「1」評価だったというネタ)に代わっていて、公演日によってネタが変わっていたことがわかりました。映像では、色々なアングルから見られるので、特に、照明の効果が楽しめます。
(2020.12.22追記)


【22. 1. 4追記】
『かがみの孤城』とアニメ『エヴァンゲリオン』『魔法少女まどか☆マギカ』について論じる作品論『夢の中の第3村:「エヴァンゲリオン」「まどかマギカ」と「かがみの孤城」の芸術論』(北村正裕著、Amazon Kindle版電子書籍、2022年1月)を電子出版しました。『かがみの孤城』については、連載版から単行本への大改作の詳細な検証も行い、連載版になかった衝撃のラストの誕生の背景、歴史的意義を探り、必要なあらすじ解説もしながらそのそれぞれの作品の特徴について論じていますが、第二章~第四章は、小説『かがみの孤城』のネタバレになってしまうため、これらの章は、小説『かがみの孤城』を読み終えてからお読みください。『かがみの孤城』は、初読時のラストでの驚きと感動の体験がかけがえのないものになるはずなので、先にネタバレ情報に触れないようにお注意ください。
『夢の中の第3村:「エヴァンゲリオン」「まどかマギカ」と「かがみの孤城」の芸術論』(北村正裕著、Amazon Kindle版電子書籍、2022年1月)商品ページ(Amazon)のURLは
https://www.amazon.co.jp/dp/B09PMMW9HS/
です。
また、nite(https://note.com/ )に、「『かがみの孤城』連載版から十七年版への大改作を検証」というエッセイを掲載しました。こちらは、『かがみの孤城』の決定的なネタバレを避けながら大改作を概観するエッセイです。
https://note.com/kitamuramasahiro/n/nf18cdc4141da
(22. 1. 4追記)

【22. 8.16追記】
『夢の中の第3村: 「エヴァンゲリオン」「まどかマギカ」と「かがみの孤城」の芸術論』(Kindle版電子書籍)の内容を再構成の上、加筆、改題して新刊本として出版するための準備中です。発売時期など、詳しい情報については、後日、ツイッター
https://twitter.com/masahirokitamra
でお知らせできると思います。
(22. 8.16追記)

【22年11月7日追記】
小説『かがみの孤城』(辻村深月作)について論じる作品論
『「かがみの孤城」奇跡のラストの誕生』(北村正裕著)、
彩流社からの12月の出版が決まりました。

情報記事
http://masahirokitamura.dreamlog.jp/archives/52493986.html

(22年11月7日追記)