北村正裕BLOG

【北村正裕のナンセンスダイアリー】童話作家&シンガーソングライター、北村正裕のブログです。 トラックバック送信のさいには、当ブログ該当記事へのリンクをお願いします。また、コメントは投稿できない設定になっています。 執筆情報用ホームページ(童話作家・北村正裕のナンセンスの部屋) http://masahirokitamura.my.coocan.jp/ と、音楽情報用HP(北村正裕アート空間) http://masahirokitamura.art.coocan.jp/ もよろしく。 ツイッターアカウントは「@masahirokitamra」です。

文学

花やしき少女歌劇団、木村唯さんを讃える小説「8月のメリーゴーランド」電子出版

花やしき少女歌劇団と木村唯さん、そして、名曲「8月のメリーゴーランド」(織音作詞、蓮沼健介作曲)へオマージュを捧げるための小説
「8月のメリーゴーランド~十八の情景」(Kindle版)
を電子出版しましたのでお知らせします。
Amazon Kindleストア限定での販売です。
https://www.amazon.co.jp/dp/B01N4WVI3U/

詳しい情報は、ホームページ
http://masahirokitamura.my.coocan.jp/
の中の「8月のメリーゴーランド」のページ
http://masahirokitamura.my.coocan.jp/merrygoround-l.htm
に掲載していますのでご参照ください。

Kindle本は、専用端末がなくても、無料のKindleアプリをいれれば、スマホでもタブレットでもWindows PCでも読めます。また、クレジットカードがなくても、Amazonギフト券でも決済できます。Amazonギフト券は、コンビニ等で売っていますが、金額が自由に設定できるカード決済専用のメールタイプのギフト券もAmazonで買えます。
1-Click設定が「クレジットカード決済」にいなっていると、カード番号の入力を求められる画面が出て、次に進めなくなるようなので、クレジットカードを使わない場合は、1-Click設定を電子マネー等に変更しておく必要があるようです。また、そもそも、商品画面に1-Clickボタンが表示されていない場合は、1-ClickをONにする操作が必要です。詳しい操作は、端末によっても違うようなので、Amazonのヘルプをご参照ください。

ホームページの中の「8月のメリーゴーランド」のページ
http://masahirokitamura.my.coocan.jp/merrygoround-l.htm
には、木村唯さんのステージの映像の情報も掲載しています。

病で夭折した唯さんについては、マスコミでも紹介され、多くのブログで取り上げられているようです。

「浅草の風」というブログの16年4月5日の記事
http://blogs.yahoo.co.jp/letgooutgo/65716505.html

も、そのひとつです。

merrygoroundprg

安房直子さんの最高級メルヘン「ひぐれのひまわり」

「安房直子記念 ライラック通りの会」の発足については、昨年4月6日の記事
http://masahirokitamura.dreamlog.jp/archives/52362408.html
に書きましたが、その記事でも、特に気に入っている作品としてあげた「夏の夢」「ほたる」「ひぐれのひまわり」の3作品のうち、「ひぐれのひまわり」の朗読や挿絵展示などが、明日、17日の「ライラック通りの会」であるそうです。会のブログ記事
http://lilac-dori.hatenablog.com/entries/2015/11/23
に詳細が載っています。こちらのブログでの紹介が遅れてしまいましたが、本日16日までメールでの参加申し込みを受け付けるそうです。

「ひぐれのひまわり」は、安房さんの作品の中でも、特に、せつなさがきわだっている名作だと思います。物語は、「ひまわりは、ひぐれに夢をみるのです」という書き出しで始まります。「夢落ち」という言葉がありますが、この作品では、最初に「夢」だと書かれているのに、それが、だんだん、リアリティを感じさせるものになり、最後には、
「このできごとが、ひぐれの夢の中の事なのか、本当の事なのか、それとも
夢と現実のまじりあったものなのか、ひまわりには、わかりません。
わからないままに、ひまわりはその夏をすごし、
夏のおわりに、小さくしおれて枯れました」
と結ばれるのです。

川沿いを走る少年の夢を見続けるうち、物語の中で、ひまわりは、ひとりの生きた娘となり、少年といっしょに「あの町まで行けたらいいのに」と思うようになります。少年は、劇場の踊り子のところに通うために毎日走っていたのでしたが、ある日、踊り子を刺して逃げて来る少年を、ひまわりの娘はボートの中にかくまい、追ってきた人たちには別の方角を示して、少年を逃がすのです。そして、
「娘の心に、
言いようのないよろこびが、ゆっくりとわきあがって来ました」
と語られます。
これが、この世でのたったひとつの喜びだとでも言うようなひまわりの娘。不条理とでも言えるくらいにせつないこの物語には、比類のない不思議な美しさがあります。
安房さんが目を向けるのは、決して、社会とか価値観ではありません。むしろ、価値を認められないもの、あるいは、価値観でゆがめられる以前の世界なのかもしれません。あるいは、世界という概念にさえ、疑いを持っているようにも思えます。この世は、すべて、夢かもしれない。そんな思いが素直に表れている作品だと思います。

この「ひぐれのひまわり」は、
『安房直子 十七の物語 夢の果て』(2005年、瑞雲舎)
http://www.amazon.co.jp/dp/4916016580/
に収録されています。『夢の果て』というタイトルの安房さんの作品集は、ほかにもあるのでお間違いにならないよう、ご注意ください。現在、絶版になっていない作品集で、この作品が収録されているのは、多分、この瑞雲舎の本だけだと思います。また、この本には、名作「ほたる」も収録されています。絵は、味戸ケイコさんです。

ところで、先にも書いた、安房さんの作品の中でも特に気に入っている「夏の夢」「ほたる」「ひぐれのひまわり」の3作品は、いずれも夕暮れの物語ですね。実は、まもなく、シンガーソングライターとしての北村正裕ライブアルバム「宝石の作り方」がiTunes、Amazonデジタルミュージック等で配信発売となる予定なのですが、僕のこのアルバムの収録曲7曲のうち、4曲の歌詞の中に「夕暮れ」または「夕焼け」という言葉が出てくるので、アルバムジャケット画像には、自分で昨年撮影した夕暮れの風景写真を使うことにしたのですが、今回、改めて、安房さんの作品を振り返って、自分の「夕暮れ」好みに気付かされました。北村正裕ライブアルバム「宝石の作り方」の配信発売については、音楽用ホームページ(北村正裕アート空間)
http://masahirokitamura.art.coocan.jp/
に掲載します。

「安房直子記念 ライラック通りの会」発足

「安房直子記念 ライラック通りの会」が発足し、4月5日に、第1回の会が開かれ、僕も参加しました。安房さんが作品を発表していた同人誌「海賊」のメンバーだった方などが世話人となっていて、「花豆の会」の活動を引き継ぐ形で、童話作家、安房直子さんの作品を語り継ぐ会で、会の詳細は、会のブログ
http://blog.goo.ne.jp/awa-lilac
に掲載されています。
今回は、安房さんとの名コンビで多くの絵を描かれた画家の味戸ケイコさんを招いての会で、味戸さんのお話をうかがうことができました。
色々なお話をうかがうことができましたが、ひとつだけ紹介しますと、味戸さんが、安房さんの「鳥にさらわれた娘」の絵本化を出版社に提案したところ、「ストーカーみたいな話だなあ」と言われ、採用されなかったとのことです。出版界の現状を垣間見るようなお話と感じました。味戸さんの提案でさえなかなか採用されないのですから、僕が、自分の作品を持ち込んでもなかなか採用されないのは当然でしょうね。そういう中で、たとえば、かつて、僕の「遺失物係と探偵」が、安房さんの「北風のわすれたハンカチ」とともに、偕成社発行のアンソロジー「わすれものをした日に読む本」(1992年)に収録されたことなどは、幸運だったと思っています。これは、自分で売り込んだのではなく、私家版で出した作品を編集委員の方に拾ってもらったものです。
僕の場合、かつて、安房さんの「夏の夢」、「ほたる」(講談社文庫「だれにも見えないベランダ」所収、現在は絶版)を読んだのがきっかけで、自分も童話を書こうと思うようになったので、安房さんは特別な作家です。この2作品は、いまでもとても好きな作品ですが、最近では、「ひぐれのひまわり」もとても好きです。
僕が特に気に入っている「夏の夢」「ほたる」「ひぐれのひまわり」の3作品は、どれひとつとして、偕成社の「安房直子コレクション」に収録されていないのですが、これも、出版社の方と自分の好みの違いを象徴していることのように思えます。

しかし、一方で、以前、13年10月25日の記事
http://masahirokitamura.dreamlog.jp/archives/52309707.html
の中でも書いたように、名作童話集「銀のくじゃく」がkindle版電子書籍として電子出版されるなど、入手しやすくなっているものもあります。

ホームページに「安房直子作品集と収録作品」のページ
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/awa.htm
がありますので、ご参照いただければさいわいです。

【15. 6.15追記】「安房直子記念~ライラック通りの会」のブログのURLが変更になりました。新しいブログのURLは
http://lilac-dori.hatenablog.com/
です。
(15. 6.15追記)

Amazon KDPで童話Kindle版電子書籍を出版

1996年に執筆し、1999年にホームページに掲載した創作童話『何もない遊園地』を、2013年1月26日(米国時間では1月25日)、通販ショップAmazonのKindleダイレクトパブリッシング(KDP)のサービスを利用して、電子出版しました。現在、
Amazon Kindleストア
http://www.amazon.co.jp/dp/B00B6FTH6Q/
で、100円で購入できるようになっています。
タブレット端末(アンドロイド端末またはiPad)でもスマートホンでも、Kindleアプリを入れれば読めます。

この作品は、これまで、ホームページ(童話作家・北村正裕のナンセンスの部屋)に掲載していましたが、中~長編に属する長さの作品なので、同じサイトに掲載している他の短編と違って、パソコンでは読みにくいのに対して、電子書籍にして、タブレット端末などでの読書であればかなり読みやすくなると思うので、AmazonのKindleダイレクトパブリッシングのサービスが、2012年10月に日本でも始まったこの機会に、作品を電子書籍として出版することにしました。
これまで長編ゆえに敬遠されていた方には、この機会に、是非、お読みいただきたいと思います。
ホームページの中のページ
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/yuuenti-e.htm
にお知らせを掲載しました。

nanimonaiyuuenti-ch

表紙の画像は、文字を含めてラシャ紙と折り紙を切り張りして作ってみました。
2008年に絵本『ガラスの中のマリー』
http://www.amazon.co.jp/dp/4380082091/
を三一書房から出版したときには、絵と風景写真を重ねたり明るさを調整したりといったデジタル作業を、デザイナーさんにお願いしてやっていただきましたが、今回の『何もない遊園地』
http://www.amazon.co.jp/dp/B00B6FTH6Q/
の電子本の表紙画像は、スキャナで電子化するまでは、完全なアナログ制作です。

駿台フォーラム18号論文「死神のメルヘン」PDFでWEB公開

2000年に、雑誌「駿台フォーラム」第18号(駿台教育研究所編集)に発表した僕の論文「死神のメルヘン」(同誌p.53-70)は、落語「死神」の成立についてオペラ「クリスピーノ」が関係しているという説に疑問を投げかけたものですが、このたび、駿台教育研究所の了解が得られたので、この論文のコピーのPDFファイルを、僕のホームページ
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/
(童話作家・北村正裕のナンセンスの部屋)
で公開しました。
現在、「プロムナード」の目次のページ
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/promenade.htm
と、「グリム童話と落語『死神』」のページ
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/grimm-rakugo.htm
の双方からアクセスできるようにしてありますので、この方面に関心をお持ちで、また、論文を入手されていなかったかたには、今のうちにダウンロードされることをおすすめします。

この論文の掲載雑誌は、一般の書籍とちがって、入手に、多少、手間がかかりますし、そもそも、駿台教育研究所の在庫もわずかしかないとのことでした。
たとえば、「おたくらしっく」というブログの2010年3月31日の記事
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-62cd.html
には、僕のホームページで紹介していたこの論文について、「興味を魅かれております」と記されながら、「入手の手続きに多少手数がかかるので、残念ながら未読です」とも記されています。他にも、研究者のかたから、入手していなかったというメッセージをいただいたこともあります。また、最近は、論文雑誌に掲載された論文が、PDF形式で、WEBでも公開されることは珍しくなくなっているようで、技術的には簡単なことなので、今回、駿台教育研究所の了解をいただいて、自分のホームページで公開することにしたわけです。ただし、今回公開したものは、1ページごとにひとつのPDFファイルにしたものなので、全部で18個のファイルに分かれています。ダウンロードに18回の作業が必要になりますが、ご容赦を。

また、同じく、ホームページで、この論文と、2011年に鹿児島大学の梅内幸信教授が発表された論文「「死神」モチーフ再考 : 『死神の名付け親』 (KHM44)と古典落語『死神』との比較検討」とを比較しながらの、梅内氏の2011年の論文の紹介記事を掲載しました。
こちらの記事は、現在、
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/grimm-rakugo3.htm
のページに掲載しています。
こちらも、興味お持ちのかた、ご覧ください。

[当ブログ内の関連記事]
http://masahirokitamura.dreamlog.jp/archives/51606121.html

『春の窓-安房直子ファンタジスタ』は「女性のため」の本?

講談社X文庫ホワイトハートシリーズの1冊として、『春の窓-安房直子ファンタジスタ』が発売になりましたが、この本、帯に「おとなの女性のための」という宣伝文句が書かれているのが、安房直子ファンの男性としては、少々気になります。安房さんの作品のような優れた創作メルヘンは、老若男女を問わず楽しめるものでしょうから、読者や批評家が「大人向き」とか「女性向き」という感想なり批評なりを書くのならともかく、出版社によって「女性のため」というレッテルを貼られてしまうことには違和感を抱かざるをえません。「童話は子どもが読むもの」と思いこんでいる人たちの先入観に対抗するために「おとなのため」と書くなら、それなりの意義はあるでしょうし、先日、このブログの中の記事
http://masahirokitamura.blog.drecom.jp/archive/54
で紹介した酒井駒子さんの『金曜日の砂糖ちゃん』などの魅力的な本が、例えば、紀伊国屋書店新宿本店の「大人向け絵本」のコーナーなどで見つかりますから、こういうコーナーはそれなりに貴重かもしれません。しかし、帯に「女性のため」とまで書かれると、やはり、「なぜ?」と思ってしまいます。いろいろな商品販売の世界では、特定の購買層に絞ったセールスが効果的であるというような話は聞いたことがありますし、本の世界でも、マンガ雑誌などは、男性向け、女性向けというはっきりとした色づけがされているものが多いようですが、児童文学の世界は、そういう商業主義的な手法がはいりこんでいない聖域のようなところだと思っていたのですが、いわゆるヤングアダルトを対象とした文庫シリーズへの進出の代償なのでしょうか?ともあれ、新しい読者を増やすことに貢献すれば、今度の本にも、それなりの価値はあるということになるのでしょう。
絵に関して言えば、カバーに、イラストレーターユニットの100%ORANGEによる絵があるだけで、本の中には、挿絵がないので、絵やデザインによって新たなイメージを得るということが出来ないのは残念で、旧来からの安房直子ファンにとっては、物足りなさがあるのも否定できないわけですが、これまた帯に「発見!」などと書かれているので、あくまでも、これまで上質の創作メルヘンに接する機会に恵まれなかった人たちのための、お手頃価格の一冊というのが、この本のねらいでしょう。
僕自身も、前に、このブログの記事
http://masahirokitamura.blog.drecom.jp/archive/57
などで書いた通り、かつて、講談社文庫の『だれにも見えないベランダ』に収録されていた「夏の夢」に感動して、それが、自ら童話を書くようになったきっかけにもなったのです。今回の本には、その「夏の夢」もはいっていませんし、「さんしょっ子」などの初期の名作もはいっていませんが、収録作品の中の「日暮れの海の物語」や「だれにも見えないベランダ」などに安房さんの魅力を感じて、他の本も読んでみようと考える人が出てくるかもしれません。
それから、まったくの私事ながら、今回の収録作品には、以下のような理由で、僕にとっては、縁のようなものを感じさせられるものがあります。

収録作品の中の「あるジャム屋の話」は、もともと、月刊「MOE」1985年4月号(当時は偕成社発行)に発表されたものですが、「MOE」のこの号の巻頭には、僕の「うさぎのおもちゃ」という詩が、飯野和好さんの絵とともに掲載されています。

もうひとつ、「北風のわすれたハンカチ」は、偕成社から1992年に発行された『わすれものをした日に読む本』というアンソロジーにも収録されていますが、この本には、僕の「遺失物係と探偵」という作品も収録されています。この本には、14人の作家の作品が1編ずつ収録されているのですが、寺山修司さんや、小沢正さんのおもしろい作品もあります。14編のうち、11番目からの作品をリストアップしておきますと、
11番目……「こぶたとうさぎのハイキング」(小沢正)
12番目……「生まれた年」(寺山修司)
13番目……「遺失物係と探偵」(北村正裕)
14番目……「北風のわすれたハンカチ」(安房直子)
と、なっています。そして、この本は、「小学中級から上級向」に、現代児童文学研究会(石井直人、藤田のぼる、宮川健郎)によって編集された「きょうはこの本読みたいな」シリーズの中の1冊です。

さて、今回の収録作品のうち、これまでにもいくつもの本に収録されてきた「日暮れの海の物語」について、改めて感じたことを少し書いておきます。ここには、初期の名作「さんしょっ子」にも匹敵するせつなさが感じられますが、「さんしょっ子」では、〈だいじなお手玉、あげたのに……。〉という胸にしみる言葉を残して、失意のうちに去っていくさんしょっ子がいとおしく描かれ、作品のタイトルにもなっているのに対して、「日暮れの海の物語」でさえに裏切られたかめは、終止、不気味に描かれているので、このかめに感情移入する人は、もしかしたら、少ないかもしれないと思いました。物語の中心は、あくまでもさえだと思っている人が多いのではないでしょうか。帯に「女性のため」と書いた出版社の人も。もちろん、さえが主人公のひとりであるのは間違いないでしょうが、さえに裏切られたかめが、この世の不条理を無言で訴えて、せつなくなります。安房直子作品の主人公の少女は、しばしば、うそをついたり、裏切ったりしますが、そのうそや裏切りが、世界の裏切りを告発しているように思えてなりません。この作品など、せつなすぎて、やりきれないという感じが残ります。でも、これが、この現実世界だとすれば、この世界の存在そのものが、間違っているんじゃないか……と、そこまで言うのは、言い過ぎでしょうか。もし、さえの最大のうそが、「正太郎が好き」ということであったなら、さえも、かめも救われるのに。さえさん、作者にもうそをつき続けていたのでしょう?そうでなかったら、悲しすぎるじゃないですか。「あたしはかめを裏切った……」というさえのラストの一言が印象に残ります。

なお、今回の『春の窓?安房直子ファンタジスタ?』(講談社X文庫ホワイトハート)収録作品は、以下の通りです。
収録作品=黄色いスカーフ/あるジャム屋の話/北風のわすれたハンカチ/日暮れの海の物語/だれにも見えないベランダ/小さい金の針/星のおはじき/海からの電話/天窓のある家/海からの贈りもの/春の窓/ゆきひらの話

この収録作品の中では、1971年に旺文社から出版された「北風のわすれたハンカチ」がいちばん古い(初期の)作品ということになると思いますが、この単行本が、2006年にブッキングにより復刊されており、これについては、ネット上にもいくつかの感想記事があります。
ひとつ紹介しておきますと、
「こどもの時間」というブログの
http://yukigahuru.blog113.fc2.com/blog-entry-47.html
の記事には、作品のていねいな紹介があります。

〔HP内の関連ページ〕
安房直子童話作品集と収録作品
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/awa.htm 続きを読む

安房直子作「きつねの窓」関係記事など

当ブログでは、今年にはいってからも、
http://masahirokitamura.blog.drecom.jp/archive/43
http://masahirokitamura.blog.drecom.jp/archive/47
の記事で、安房直子さんの童話について触れ、他のブログの関連記事の紹介もしましたが、その後、また、あらたに、関連記事が登場しているようなので、ふたつほど、紹介します。

ひとつは、
「epi の十年千冊」というブログの
http://epi-w.at.webry.info/200808/article_5.html
の記事で、ここには、偕成社文庫版の『風と木の歌』が紹介されています。

もうひとつは、
「++薫風日記++」というブログの
http://plaza.rakuten.co.jp/nana16/diary/200804190000
の記事で、ここには、講談社文庫の『南の島の魔法の話』が紹介されています。

これらの記事で紹介されている2冊の本には、いずれも、「きつねの窓」「さんしょっ子」「鳥」「夕日の国」といった初期の名作が収められていて、郷愁に満ちあふれた安房さんの作品世界を味わうことができる本です。上記記事にも、それぞれの方の感想が書かれていますが、「淋しさ」あるいは「物悲しさ」という言葉がひとつのキーワードになっていて、たしかに、安房さんの魅力の重要なポイントがそこにあると、僕も思います。
そして、とくに、安房さんの初期の作品では、"夢"の世界を覗いた主人公が、最後には、"現実"に戻って来ることで、幻想世界への郷愁が増幅されるような作りになっていて、「きつねの窓」の「ぼく」も、きつねの窓の中の世界にはいってしまうわけではありません。
それに対して、先日、
http://masahirokitamura.blog.drecom.jp/archive/52
http://masahirokitamura.blog.drecom.jp/archive/51
の記事などで紹介した、僕の新作絵本『ガラスの中のマリー』のマリーは、物語冒頭で、いきなり「ガラスの中のセピア色の町」にはいってしまい、ずっと、その中をさまよいながら、とうとう、そこから戻ってくることはありません。
安房さんであれば、「夢の果て」がそうであったように、そんな主人公には、破滅という結末を用意するのでしょうが、僕の『ガラスの中のマリー』のマリーには、そもそも、結末と呼べるようなものは、なにも与えられていません。ラストのページは、一枚の風景写真をおくだけにしました。
これは、いわば、きつねの窓の中にはいりこんで、その中をさまよい続ける選択をした主人公の幻想世界ということになるかもしれません。もう30年近く前に安房さんの「夏の夢」(講談社文庫版『だれにも見えないベランダ』所収)に感銘を受けて童話を書き始めたひとりの書き手の現在、と言ってもよいかもしれません。
その『ガラスの中のマリー』について、大阪の芦田書店という本屋さんのブログの
http://asida-books.blogspot.com/2008/08/blog-post_19.html
の記事の中に、「ふわふわと… 漂うような本」というコメントがありますが、"現実"に帰ることもなく幻想世界をさまよい続ける姿を表現したものなら、おもしろい表現かもしれません。「ふわふわ本」という記事のタイトルだけ見ると、明るい感じの本を連想される方も多いかもしれませんが、実際には、僕自身は、本の中に、さびしさを込めたつもりです。もちろん、読者の方には、ご自由に、ご自身のイメージを重ねていただければさいわいです。

〔Amazonのサイト内の情報ページ〕
「風と木の歌」(安房直子著、偕成社文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/4036526200/

「南の島の魔法の話」(安房直子著、講談社文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/4061381105/

「夢の果て」(安房直子著、瑞雲舎)
http://www.amazon.co.jp/dp/4916016580/

「だれにも見えないベランダ」(安房直子著、講談社文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/4061381288/

「ガラスの中のマリー」(北村正裕著、三一書房)
http://www.amazon.co.jp/dp/4380082091


〔HP内の関連ページ〕
安房直子童話作品集と収録作品
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/awa.htm

絵本『ガラスの中のマリー』出版情報
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/marie-e.htm

『ハリー・ポッター』全7巻完結

J.K.ローリングの長編ファンタジー「ハリー・ポッター」シリーズ全七巻が、第7巻「ハリー・ポッターと死の秘宝」発売で完結し、邦訳も出そろって、読者としても、およそ十年に渡る読書の旅が完結しました。
HPの雑記帳のコーナー
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/news.htm
にも、感想を少し書きましたが、スネイプの秘密が明かされる第33章で、あまりにもせつない感じに圧倒されてしまいました。訳者の松岡さんのあとがきにも、「私にとっての圧巻は三十三章だ」と書かれていますが、あそこで衝撃を受けた人は多いのではないでしょうか?第32章のラストでのスネイプの最期の言葉の意味も、第33章を読んで初めてわかるようになっているんですね。誤解を恐れずに言えば、「リリーは裏切り者ではないか?」と感じてしまいました。こんな感想を抱くのも、スネイプへの感情移入のためなのでしょう。複雑な思いで、自分の中では、気持ちの整理ができません。「一九年後」と題された終章の平和な世界の情景描写を読んでも、切なさが消えず、なんだか、空しささえ感じてしまいました。
この終章を「しあわせ」と呼ぶなら、しあわせなんて、まやかしだ!この世は裏切りそのものだ!もしかしたら、それこそが、作者のメッセージだったのではないか、とさえ思えてしまいます。そう考えれば、主要なこどもキャラの中で、最も魅力的と感じられるキャラだったルーナだけが終章に登場しないことも、初めて理解できるのです。ルーナが彼女自身の部屋の天井に描いていた絵と文字をハリーが見つけて感動する場面(第21章)で「ルーナに対して、熱いものが一気に溢れ出すのを感じた」のはハリーだけではないでしょう。
ルーナは、ジニーのともだちとして第5巻で初登場しましたが、第5巻が映画化されたときには、ルーナ登場の場面で、たしか、ハーマイオニーが他のともだちにルーナを紹介していて、その言葉が、日本語版で「不思議ちゃん」という歴史の浅い言葉になっていたと記憶していますが、ルーナには、ハーマイオニーやジニーには見えないセストラル(死に向き合った者のみに見える動物)が見えていたんですよね。
謎が明かされた「ハリー・ポッター」の世界が、これが世界というものなら、世界全体などを考えたら、あまりの空しさに、一歩も動けなくなってしまうでしょう。作者がダンブルドアの妹に与えた運命の残酷さなどは、語ることさえ避けたいほどです。

ほかの読者はどう感じているのだろうと、ネット検索をしてみたところ、
邦訳が出版される前の昨年12月に書かれていた
「少佐の記憶」というブログの中の
「『ハリー・ポッターと死の秘宝(第7巻)』ネタバレ感想」という記事
http://syousanokioku.at.webry.info/200712/article_6.html
の中に、シリーズの題名について「"Severus Snape and the Unrequited Love" (『セブルス・スネイプとその報われぬ愛』)の題名に取り替えてあげたい」と書かれているのを見つけました。本当に、この物語のポイントは、そこでしょうね。そう感じている人は、少なくないでしょう。
「迷宮ALICE」というブログの
「ハリポタ7巻ネタバレ感想??スネイプ先生について?」
http://yaplog.jp/darkflower/archive/198
の記事でも、スネイプについて、「ホント切なすぎるキャラだ・・・」とあります。ほうとうにそうですよね。「辛いなあ・・・と思います」とも書かれていますが、それも同感です。

もちろん、ルーナの存在感、ネビルの活躍など、気持ちがすっきりする場面もあったし、最後の土壇場の第36章で悪の最強魔女がジニーたちに杖を向けたときに、これまで一度も戦闘シーンに参加していなかったジニーたちの母ちゃんが突然飛び込んできて、一騎打ちで最強魔女を倒してしまうところなど、笑えるほど痛快だし、その母ちゃんを、いよいよ悪の権化たるヴォルデモートが攻撃しようとしたとき、死んだはずのハリーが透明マントを脱いで現れるという運びは、もう、ヒーローファンタジーのお約束そのものとも言えるでしょう。しかし、こういう定型的な枠組みの脇で、ひそかに、決して報われることのない"愛"に生涯をささげたスネイプの物語が語られていて、謎の奥に隠されていたその真実が、最終巻まで明かされなかったというところが、少なくとも、僕にとっては、一番、衝撃的でした。
もし、作者のメッセージが、上記のように、この世の偽りの告発であるのなら、第36章のあまりに定型的な枠組みも、ヒーローファンタジーや「正義」そのものへのアイロニーなのかもしれないし、ヴォルデモートの真の内面を描かないことの意味も、また、同様なのかもしれません。そんな風に感じるのは僕だけでしょうか?しかし、どう表現しようが、虚無感、虚脱感は払拭できません。物語が精巧にリアルに作られているため、それだけ、ショックは、大きいです。評論家的な冷静な感想記事を書かれている人もいるようですが、今の僕にはとてもできません。ほとんど悪態とも言えるような感想になってしまいすみません。しかし、こんな大作で、最後まで読もうと思えるようなものは、今後、二度と現れないでしょうから、こんなショックも、もう、味わうことはないでしょう。

なお、第7巻発売のしばらく前に、作者の発言の断片を根拠として、最終巻でハリーが死ぬのではないか、とか、ロン、ハーマイオニーのどちらかも死ぬのではないかという情報が流れ、朝日新聞にも情報が掲載されましたが、結局、3人とも死にませんでしたね。ハリーは、いわば冥途の入口まで行って、戻ってきましたね。作者も迷っていたのでしょうか?それとも、はらはらさせるための発言だったのか、あるいは、情報そのものが間違っていたのか、そのあたりは、わかりません。
その朝日新聞の記事については、
「吉岡家一同おとうさんのブログ」というブログの06年6月の記事
http://pokemon.at.webry.info/200606/article_31.html
に引用されています。

第5巻までは、すでに映画化もされていますが、今度は、第6作、第7作の映画を待ちましょう。悪態とも言える感想を書いてしまいましたが、映画は映画で、こちらも、また、見ようと思っています。

「鳥」「きつねの窓」など教科書に載った安房直子作品

安房直子さんの童話作品のうち、「きつねの窓」と「鳥」は、それぞれ、かつて、小学校と中学校の教科書に掲載されていた(いずれも教育出版)時期があることもあって、特に人気が高いようで、これまでに、色々な短編集に収録され、ネット上でも話題になることが多い作品です。このうち、絵本化された「きつねの窓」はともかく、「鳥」のほうは、一時期、収録本がことごとく長期品切れとなっていたようなのですが、最近、「きつねの窓」「鳥」両作品を含む作品集が、続々と復活してきており、喜ばしいことだと思います。それらの作品集の中でも、入手しやすいいくつかの文庫版をあげておきますと、
まず、ポプラ社ポケット文庫の「きつねの窓」(2005年)。これは、1980年にポプラ社から発行されたものの新装版です。
次に、偕成社文庫の「風と木の歌」(2006年)。これは、1972年に初版が実業之日本社から出た同名の作品集(安房さんの最初の短編集)の収録作品を文庫版で復活させたものです。
そして、もうひとつ、長い間、品切れが続いていた講談社文庫の「南の島の魔法の話」(1980年)も、復活しているようです。この本では、「鳥」が冒頭におかれており、挿絵とカバーの絵は、安房さんと絶妙のコンビだった味戸ケイコさんです。

ところで、教科書に掲載された安房さんの作品は、「きつねの窓」と「鳥」だけではなく、かなり多数にのぼるようです。
偕成社版「安房直子コレクション7・めぐる季節の話」(04年)の巻末に掲載されている「著作目録」のp.30に教科書掲載作品の一覧があります。
「青い花」「秋の風鈴」「きつねの窓」「木の葉の魚」「すずめのおくりもの」「たぬきのでんわは森の一ばん」「つきよに」「鳥」「ねずみの作った朝ごはん」「はるかぜのたいこ」「ひぐれのお客」「やさしいたんぽぽ」
がリストアップされていますが、何年にどの教科書に掲載されたかも載っています。

余談になりますが、かつて、渋谷にあった童話屋という本屋さんで開かれたお話し会に、安房直子さんが、詩人の工藤直子さんとの対談という形で、珍しくファンの前に姿を現したことがあります。このときの質疑応答の時間に、聴衆のひとりで小学校の先生らしい方が、安房さんに、「作品から子どもに何を学ばせたいですか?」というような趣旨の質問が出て、安房さんが、「何を感じてもらってもよいです」というような趣旨の答えをされていたのを記憶しています。教育の現場で、特定の解釈を押しつけるようなことはしてほしくないですね。教科書に載ったことで、多くの人が安房さんの作品に出会えたということは素晴らしいことですが、それを、あまり「教材」という目では見ないで欲しいものだと、僕も思います。

〔関連のブログ記事〕
「Rongo-Rongo」というブログの06年4月25日の記事
http://blog.so-net.ne.jp/rongo-rongo/2006-04-25

〔HPのプロムナードコーナー内の「安房直子童話集について」のページ〕
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/awa.htm

日本テレワークの捏造番組問題と「トリビアの泉」の問題放送

昨年8月に、HPに「ピーター・パン」についてのエッセイ
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/peterpan.htm
を掲載したさい、ネット上で「ネバーランドの子どもたちが大人にならないのは成長した子どもをピーターが殺しているからだ」という趣旨の記述が氾濫しており、それは、「あるテレビ番組がきっかけとなっていたよう」だとも書き、当ブログにも関連記事
http://masahirokitamura.blog.drecom.jp/archive/23
を掲載しましたが、検索していただいた方にはすでにおわかりになっている通り、その番組というのは、2004年10月27日放送のフジテレビの「トリビアの泉」です。僕自身は、その番組を見ていないのですが、ネットで集められる情報を見る限り、放送内容に問題があったのではないかと考えています。単なるひとつの解釈を提示したというのではなく、原文を「編集」して、結果として、全く別の意味の文章を「ねつ造」していると言ってもよいくらい問題ある内容だったのではないかと疑っています。
具体的に説明しましょう。以下、ここでは、訳文は、高杉一郎訳「ピーター・パン」(講談社文庫、1984年)からの引用です。
まず、1911年版の「ピーター・パンとウェンディ」の第11章で、両親のいる家が恋しくなったウェンディたちが家に帰ることになった場面に、次のような記述があります。

 でも、もちろん、ピーターはひどくかなしかったのです。例によって、なにもかもめちゃくちゃにしてしまったおとなたちのことを、かんかんになっておこりました。
 そこで、ピーターは、じぶんの木の中にもぐりこむとすぐに、わざと、一秒間におよそ五つのわりあいで、みじかくてはやい息をしました。なぜ、そんなことをしたかというと、ネバーランドでは、だれかが息をつくたびに、おとながひとり死ぬといういいつたえがあったからです。そこでピーターは、ふくしゅうのために、できるだけはやく、おとなたちを殺してやろうと思ったのです。
(以上、前掲書P.207)

この、いわば地団駄を踏むピーターを描写した部分のうち、上記番組では、「ふくしゅうのために、できるだけはやく、おとなたちを殺してやろうと思ったのです」という部分(原文= Peter was killing them off vindictively as fast as possible)を抜き出して、

第5章の
「子どもたちが大きくなりそうだと、これは規則違反なので、ピーターに間引かれてしまいます」(高杉訳p.97、原文=when they seem to be growing up, which is against the rules, Peter thins them out )という部分につなげて「紹介」し、結果として、「間引く」(thin out)という言葉が殺害を意味しているという印象を視聴者に強く与えるような放送をしたようなのです。しかも、第11章の該当部分の"killing"が、一部のみを抜き出したために、あたかも本当の殺人行為であるかのような「紹介」になっているようです。

この放送内容を、僕は、
「greggman.com」というサイトのブログの
http://greggman.com/edit/editheadlines/2004-10-27.htmに記されている情報などから推測しているのですが、この放送が、多くの視聴者に誤解を与えている様子は、例えば、
「Weekly Web Waveデイリー版」というブログの
http://blogs.dion.ne.jp/temple/archives/176130.html
や、「++徒然日記++」というブログの
http://trickycat.exblog.jp/726970
など、ネット上の多くの情報が示唆しています。
僕自身は、上記の自分のHPで、「間引く」はネバーランドからの追放を意味していると解釈するのが自然だろうという意見を書いていますが、問題の番組は、原文を改編して「紹介」することで、そうした解釈のはいりこむ余地を排除しているようで、問題だと思うのですが、いかがでしょうか?
「ピーター・パンとウェンディ」の邦訳は、今では、石井桃子訳が福音館文庫から出ていますので、興味をお持ちの方は参照されるとよいと思います。また、原文は、Oxford University Press から出版されている"Peter Pan in Kensington Gardens ・ Peter and Wendy"に「ケンジントン公園のピーター・パン」とともに収録されていて、これは簡単に入手できますので、照合されるとよいと思います。

ところで、「TERAINFORMATION」というブログの
http://terainfo.seesaa.net/article/32282153.htmlなどの情報によると、
この「トリビアの泉」という番組の制作には、「発掘!あるある大事典?」という番組での捏造問題で話題になっている日本テレワークがかかわっているようです。「あるある大事典」の方も、僕は、見たことがないのですが、捏造報道が問題となり、フジテレビも含めて、反省すべき機会となっている中で、依然として、この「トリアビの泉」の放送が問題視されないのは不思議なのですが、いかがでしょう?テレビ局は、このような過去の放送も見直して、反省すべきは反省してもらいたいものです。問題があるのは、健康番組だけではないし、また、関西テレビだけの問題でもないと思います。
「Never Stop! 」というブログの
http://camella.blog.ocn.ne.jp/neverstop/2007/01/post_6ffc.html
には、「まだあるでしょ?」という記事タイトルのもと、「この際だから洗いざらいやっちゃって下さいな」とありますが、健康番組に限らず、点検、反省にはいい機会のはずだと思います。
また、上記「ピーターパン」問題に関しては、「トリビアの泉」が発信した間違った情報が、インターネット上で異常に増殖しているということを指摘しておかなければいけません。この記事で上に紹介したブログサイトの記事は、「トリビアの泉」という情報源を明示しているので、この点では、紹介の仕方としては不当ではないのですが、以前、この種の記事が、匿名で、情報源も記さず、定説であるかのような表現で掲載されているサイトを見かけたこともあり、こうなると、問題は深刻です。情報源の明示は、ネット上での情報伝達では非常に重要ですので、例えば、当ブログの読者の方が、僕のこの記事の内容を、ほかのブログなどで紹介していただける場合には、「『北村正裕のナンセンスダイアリー』の2007年2月1日の記事によれば……」という具合に、必ず情報源を明記してください。また、当記事へのトラックバック送信のさいには、送信元のサイトから当記事へのリンクをお願いします。
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