北村正裕BLOG

【北村正裕のナンセンスダイアリー】童話作家&シンガーソングライター、北村正裕のブログです。 執筆情報用ホームページ(童話作家・北村正裕のナンセンスの部屋) http://masahirokitamura.my.coocan.jp/ と、音楽情報用HP(北村正裕アート空間) http://masahirokitamura.art.coocan.jp/ もよろしく。 ツイッターアカウントは「@masahirokitamra」です。

文学

日本テレワークの捏造番組問題と「トリビアの泉」の問題放送

昨年8月に、HPに「ピーター・パン」についてのエッセイ
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/peterpan.htm
を掲載したさい、ネット上で「ネバーランドの子どもたちが大人にならないのは成長した子どもをピーターが殺しているからだ」という趣旨の記述が氾濫しており、それは、「あるテレビ番組がきっかけとなっていたよう」だとも書き、当ブログにも関連記事
http://masahirokitamura.blog.drecom.jp/archive/23
を掲載しましたが、検索していただいた方にはすでにおわかりになっている通り、その番組というのは、2004年10月27日放送のフジテレビの「トリビアの泉」です。僕自身は、その番組を見ていないのですが、ネットで集められる情報を見る限り、放送内容に問題があったのではないかと考えています。単なるひとつの解釈を提示したというのではなく、原文を「編集」して、結果として、全く別の意味の文章を「ねつ造」していると言ってもよいくらい問題ある内容だったのではないかと疑っています。
具体的に説明しましょう。以下、ここでは、訳文は、高杉一郎訳「ピーター・パン」(講談社文庫、1984年)からの引用です。
まず、1911年版の「ピーター・パンとウェンディ」の第11章で、両親のいる家が恋しくなったウェンディたちが家に帰ることになった場面に、次のような記述があります。

 でも、もちろん、ピーターはひどくかなしかったのです。例によって、なにもかもめちゃくちゃにしてしまったおとなたちのことを、かんかんになっておこりました。
 そこで、ピーターは、じぶんの木の中にもぐりこむとすぐに、わざと、一秒間におよそ五つのわりあいで、みじかくてはやい息をしました。なぜ、そんなことをしたかというと、ネバーランドでは、だれかが息をつくたびに、おとながひとり死ぬといういいつたえがあったからです。そこでピーターは、ふくしゅうのために、できるだけはやく、おとなたちを殺してやろうと思ったのです。
(以上、前掲書P.207)

この、いわば地団駄を踏むピーターを描写した部分のうち、上記番組では、「ふくしゅうのために、できるだけはやく、おとなたちを殺してやろうと思ったのです」という部分(原文= Peter was killing them off vindictively as fast as possible)を抜き出して、

第5章の
「子どもたちが大きくなりそうだと、これは規則違反なので、ピーターに間引かれてしまいます」(高杉訳p.97、原文=when they seem to be growing up, which is against the rules, Peter thins them out )という部分につなげて「紹介」し、結果として、「間引く」(thin out)という言葉が殺害を意味しているという印象を視聴者に強く与えるような放送をしたようなのです。しかも、第11章の該当部分の"killing"が、一部のみを抜き出したために、あたかも本当の殺人行為であるかのような「紹介」になっているようです。

この放送内容を、僕は、
「greggman.com」というサイトのブログの
http://greggman.com/edit/editheadlines/2004-10-27.htmに記されている情報などから推測しているのですが、この放送が、多くの視聴者に誤解を与えている様子は、例えば、
「Weekly Web Waveデイリー版」というブログの
http://blogs.dion.ne.jp/temple/archives/176130.html
や、「++徒然日記++」というブログの
http://trickycat.exblog.jp/726970
など、ネット上の多くの情報が示唆しています。
僕自身は、上記の自分のHPで、「間引く」はネバーランドからの追放を意味していると解釈するのが自然だろうという意見を書いていますが、問題の番組は、原文を改編して「紹介」することで、そうした解釈のはいりこむ余地を排除しているようで、問題だと思うのですが、いかがでしょうか?
「ピーター・パンとウェンディ」の邦訳は、今では、石井桃子訳が福音館文庫から出ていますので、興味をお持ちの方は参照されるとよいと思います。また、原文は、Oxford University Press から出版されている"Peter Pan in Kensington Gardens ・ Peter and Wendy"に「ケンジントン公園のピーター・パン」とともに収録されていて、これは簡単に入手できますので、照合されるとよいと思います。

ところで、「TERAINFORMATION」というブログの
http://terainfo.seesaa.net/article/32282153.htmlなどの情報によると、
この「トリビアの泉」という番組の制作には、「発掘!あるある大事典?」という番組での捏造問題で話題になっている日本テレワークがかかわっているようです。「あるある大事典」の方も、僕は、見たことがないのですが、捏造報道が問題となり、フジテレビも含めて、反省すべき機会となっている中で、依然として、この「トリアビの泉」の放送が問題視されないのは不思議なのですが、いかがでしょう?テレビ局は、このような過去の放送も見直して、反省すべきは反省してもらいたいものです。問題があるのは、健康番組だけではないし、また、関西テレビだけの問題でもないと思います。
「Never Stop! 」というブログの
http://camella.blog.ocn.ne.jp/neverstop/2007/01/post_6ffc.html
には、「まだあるでしょ?」という記事タイトルのもと、「この際だから洗いざらいやっちゃって下さいな」とありますが、健康番組に限らず、点検、反省にはいい機会のはずだと思います。
また、上記「ピーターパン」問題に関しては、「トリビアの泉」が発信した間違った情報が、インターネット上で異常に増殖しているということを指摘しておかなければいけません。この記事で上に紹介したブログサイトの記事は、「トリビアの泉」という情報源を明示しているので、この点では、紹介の仕方としては不当ではないのですが、以前、この種の記事が、匿名で、情報源も記さず、定説であるかのような表現で掲載されているサイトを見かけたこともあり、こうなると、問題は深刻です。情報源の明示は、ネット上での情報伝達では非常に重要ですので、例えば、当ブログの読者の方が、僕のこの記事の内容を、ほかのブログなどで紹介していただける場合には、「『北村正裕のナンセンスダイアリー』の2007年2月1日の記事によれば……」という具合に、必ず情報源を明記してください。また、当記事へのトラックバック送信のさいには、送信元のサイトから当記事へのリンクをお願いします。

『小さな白い鳥』(邦訳=パロル舎)と『ピーター・パン』関係記事

HPの「プロムナード」コーナーに、「劇と童話の『ピーター・パン』と『小さな白い鳥』」に関する記事
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/peterpan.htm
を掲載しましたので、それに関連して
『ピーターパン』と『小さな白い鳥』に関するいくつかのブログ記事を紹介しておきます。
まず、「銀の森のゴブリン」というブログの
http://goblin.tea-nifty.com/blog/2005/10/post_094c.htmlに、『小さな白い鳥』(邦訳=パロル舎刊)についてのコメントがあります。
そして、この小説の一部である『ケンジントン公園のピーター・パン』の訳本についてのコメントが、
「Hugo Strikes Back!」というブログの
http://hugo-sb.way-nifty.com/hugo_sb/2005/03/post_9.html
にあります。
また、「++徒然日記++」というブログの
http://trickycat.exblog.jp/884181
には、有名な1911年版の童話『ピーターとウェンディ』の訳本についてのコメントがあります。僕は、「間引く」"thins them out"という表現を「殺害」の意と断定する解釈については、上記HPの記事で疑問を投げかけましたが、このブログでは、最近の多くのネット上でのコメントと同様、「ピーター=殺人犯」という解釈がとられています。
HPでも触れたように、この「ピーター=殺人犯」解釈がネット上でことさら強調されるようになったきっかけは、あるテレビ番組だったようですが、その番組に触れた記事としては、例えば、
「みになGino」というブログの
http://ginolife.at.webry.info/200410/article_8.html
「シネマレストラン」というブログの
http://blogs.yahoo.co.jp/snow_snow_restaurant/13616384.html
などがあります。
ホリプロ制作のミュージカルについては、「A theater is a jewel box」というブログの
http://star.ap.teacup.com/theaterbox-mu/19.html
などにコメントがあります。

(06. 8. 3追記) ホリプロ制作のミュージカルについては、「くまのすけの素浪人つれづれ日記」というブログの
http://kumanosuke.at.webry.info/200607/article_7.html
にもコメントがあり、舞台の雰囲気の一端を伝える内容です。ただし、この記事、惜しいことに、記事のタイトルに言葉の誤用があるようです。「タイトルロール」という言葉は、劇の題名になっている役という意味であって、主役という意味ではありませんので、ご注意を。

安房直子/作、味戸ケイコ/絵『夢の果て』(瑞雲舎刊)について

かつて、雑誌「詩とメルヘン」に味戸ケイコさんの絵とともに掲載された安房直子さんの創作メルヘン17編が、『夢の果て』というタイトルで、瑞雲舎から刊行されました(2005年12月発行)。以前、HPのプロムナードコーナーにも書きましたが、ぼくが、童話を書くきかっけになったのは、安房さんの「夏の夢」という作品との出会いであり、それを収録した本『だれにも見えないベランダ』(講談社文庫)を見つけたのは、たしか、1982年の秋ごろだったと思います。この本には、「ほたる」という作品もはいっていて、それも、とても魅力的な作品だと思っていましたが、今回、この「ほたる」が、久々に、単行本に収録されました。
雑誌「詩とメルヘン」で、現在、僕の手元に残っているのは4冊だけでしたが、そのうちの2冊に安房さんの作品が掲載されています。ひとつは、「ふしぎな文房具屋」が掲載された1982年12月号、もうひとつは、「月の光」が掲載された1984年7月号です。どちらも、僕が、安房さんの作品をむさぼるように読んでいたころに発行されたもので、この2作は、どちらも、現世的価値だけに執着していたら見られないような世界、生と死の世界のつながりを見せてくれるような、非常に魅力的な作品です。「月の光」は、しばらく、読んでいなかったようで、こんな魅力的な作品の存在を、不覚にも忘れていました。しかし、思いがけず、自分が、安房さんのファンであることの証を発見したような気分にもなりました。というのは、僕が、1988年に執筆し、1990年に私家版童話集『オデット姫とジークフリート王子のほんとうの物語』に収録した短編「思い出の街」が、明らかに、安房さんの「月の光」の影響を受けた作品だと思えたからです。安房さんの作品では、死を前にした病気の少女が病室から出るのは、ほとんどラストシーンであるのに対して、僕の作品では、病室を出るところから物語りが始まる、といった違いはありますが、「月の光」という作品名などは忘れてしまっていても、心の底に、この作品の印象が残っていたのは間違いないと思います。現在HPに掲載している僕の作品などは、少なくとも、表面上は、安房さんの作品とは、全く、似ていないと思いますが、この「思い出の街」だけは、僕が安房さんのファンである証になるように思いました。
なお、今回「月の光」につけられた絵は、「詩とメルヘン」掲載時とは全く別の絵で、味戸さんが新たに描かれたもののようです。「ふしぎな文房具屋」のほうは、今回の4つの絵のうち、後半2つは「詩とメルヘン」の絵と同じで、前半2つの絵は新作のようです。
収録作品は、ほたる/夢の果て/声の森/秋の風鈴/カーネーションの声/ひぐれのひまわり/青い貝/天窓のある家/奥様の耳飾り/誰にも見えないベランダ/木の葉の魚/花の家/ある雪の夜のはなし/小鳥とばら/ふしぎな文房具屋/月の光/星のおはじき、以上、17編です。
「詩のメルヘン」という雑誌は、少なくとも、これらの作品を世に送り出したということだけでも、大変価値のある雑誌だったのだと思いました。

〔HPのプロムナードコーナー内の「安房直子童話集について」のページ〕
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/awa.htm

西本晃二著『落語「死神」の世界』について

西本晃二氏の著書「落語『死神』の世界」(青蛙房発行、2002年11月、本体価格3200円)については、すでに、HPの中のプロムナードのコーナー
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/promenade.htm
の「グリム童話と落語『死神』」のページでも紹介しましたが、この本、発行日こそ、僕の論文「死神のメルヘン」(「駿台フォーラム第18号」、2000年8月)より、かなり後ですが、そこに収録された研究内容の大部分は、僕の論文より、ずっと前からなされていたもののようであり、部分的に僕の論文の引用はあるものの、僕の論文の論旨をふまえたものにはなっていません。僕の主張は、落語「死神」のルーツは、あくまで、グリム童話であって、オペラ「クリスピーノ」は、全く関係ないというもので、そう考える根拠、というより、「クリスピーノ」ルーツ説の根拠とされていたものをひとつひとつ否定してきたのですが、それに対する反論は、一切、ないようです。たとえば、洋行経験のある福地桜痴が円朝のブレーンであり、福地桜痴が洋行の際に、オペラ「クリスピーノ」を見たのではないかという仮説に対しては、それ自体は、僕としては、特に、否定もしていませんが、それより、福地桜痴が、グリム(兄)と面会していた可能性が、日独双方の記録から、考えられるということも、上記論文に書きましたが、そう考えれば、福地桜痴の関与の可能性は、「クリスピーノ」ルーツ説より、グリムルーツ説に有利なものになります。
もともと、イタリア文学の研究家だった西本氏が、落語「死神」の研究を始められたのは、この落語が、イタリアのオペラ「クリスピーノ」から作られたと言われていて、そのオペラについての質問を受けたのがきっかけだったそうですが、僕の現在の考えでは、その前提、すなわち、「クリスピーノ」ルーツ説は、全くの間違いだったと思います。そして、何故、その間違った説が広まってしまったかということも、論文で述べました。しかし、だからといって、西本氏の研究が無意味なものということにはなりません。間違った説を前提にしていても、西本氏が調べた内容は、それなりに興味深い内容で、実は、僕は、未だに拾い読み程度にしか読んでいないのですが、西本氏の長年にわたる研究の成果が披露されていて、関連方面の研究にとっても貴重な資料になるのではないかと思います。
興味を持たれた方には、僕の論文と読み比べていただければさいわいです。僕の論文の掲載誌「駿台フォーラム第18号」の入手方法については、HPにも掲載しましたし、駿台教育研究所にお問い合わせいただければよいと思いますが、多分、国会図書館でも閲覧できると思います。
駿台教育研究所のHPは、 http://www.sundai.ac.jp/kyouken/ です。

なお、音楽工房「blooming sound jp」のブログの
http://bloomingsound.air-nifty.com/blog/2004/09/post_2.html
の記事に、西本氏の上記著書の話題が載っています。
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