『夢の中の第3村:
「エヴァンゲリオン」「まどかマギカ」と「かがみの孤城」の芸術論』(Kindle版電子書籍)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09PMMW9HS/
では、『かがみの孤城』(辻村深月作)、17年版について、その優れた点を取り上げていて、特に、その第三章(「かがみの孤城」が示した類型化への抵抗)では、不登校の子どもたちなどへのレッテル貼り、類型化への反発を貫く姿勢が成功している部分について取り上げましたが、すべてが成功しているわけでなく、例えば、登場人物のひとり、スバルについては、実質的なレッテル貼り、類型化に基づく記述によって、唐突で違和感を与える結果になってしまっている部分がああると感じています。
その違和感を感じさせる部分というのは、「三月」の章の、スバルの記憶がこころに流入する場面の、
「兄ちゃんの彼女の友達が、初めてセックスすると女は血が出るんだよ、と言っていたことを思い出して、少し笑う。あの子が血が出なかったのは、きっと初めてじゃなかったからだ」
という部分(17年版単行本P444の16~17行目、21年文庫版では下巻P212の14~16行目)です。
スバルの記憶がこころに流入するこの場面、「あの子が血が出なかったのは……」の部分について、「Yahoo!知恵袋」に、
「この作品がすごく好きで既に何回も読み直しているのですが唯一ここだけがいつも『??』となってしまいます」
と書かれた質問があるのを見つけましたが、自分も好きでないこの部分について、少し、書いておきます。たしかに、この部分、唐突な印象を与える部分だと思います。
「兄ちゃんの彼女の友達が」という記述があることから、スバルには、兄の「彼女」やその友達とつきあいがあるということになるので、「あの子」も、スバルの兄の「彼女」の友達か、あるいは、そのまた友達など、いずれにしてもスバルの兄につながる誰かという可能性はあるのではないかと思いますが、それが誰であっても、鏡の城のメンバーにとっては、どうでもよいことでしょう。
「八月」の章では、スバルがピアスをつけたことが、「兄ちゃんと、その彼女」から半ば強制的にさせられたことだというようなスバルの台詞がありますが、スバルは、兄とその「彼女」の影響をかなり受けている、というより、彼らに逆らえない状況にあったということだと思います。
スバルは祖父母と暮らしていて、親とはたまにしか会えないという境遇で、それゆえ、兄との関係を切り捨てることは、スバルには難しかったのかもしれません。少なくとも、作者は、スバルを、そのように描こうとしているように思います。
スバルの「兄ちゃんと、その彼女」という言葉に対して、こころの心理描写の中で、
「それは、こころが苦手に思うような人たちだという気がした。こころがスクールの喜多嶋先生やお母さんに、そういう子たちと同じに思われたくないと感じたような種類の子たち。日中、学校に行かず、ゲームセンターやショッピングセンターで平然と遊ぶような、派手な子」
(17年版単行本P176、21年文庫版では上巻P245)
と、表現されていますが、作者は、そのように、スバルに、こころとは異質な中学生のイメージを与えることで、鏡の城のメンバーに多様性を与えることを狙っているように思えます。しかし、スバルに関するご指摘の部分については、それが成功しているかどうかは、また、別の問題です。はっきり言ってしまうと、僕は、スバルに関する「あの子が……」の部分は好きではありません。
作者は、学校に行けない子どもに、例えば、「大規模な中学校になじめない子」などなどのレッテル貼りですますようなことに強く反発していて、「今目の前にいる子たちの抱える事情はそれぞれ違う。一人として同じことはない」(「エピローグ」での晶子の心情描写より)ということを強調しようとしていると思いますが、スバルに関しては、親と一緒に暮らせない子、寂しさから出会った友達との関係が途絶えることを恐れて「友達」に逆らえない子、というようなありがちなレッテル貼りをしてしまったことにならないか、とういうように批判的に見てしまいます。鏡の城での場面で丁寧に描いて作り上げたスバルのイメージが、このレッテル貼りの行きつく先にあった問題の「あの子が……」の記述で傷つけられてしまったように思えて、これは、残念なことだと、僕は感じています。作者は、過去のスバルに「問題児」のレッテルを張った大人たちに反発しながら、自ら、スバルに実質的に類型化に基づくレッテル貼りをしてしまうという失敗をしているように思います。スバルと兄の「彼女」の友達との関係が具体的に描けない以上、安易な類型化を連想させるような記述はすべきではなかったのではないかと、僕は、思っています。問題の部分(17年単行本では2行、21年文庫版では3行)は、余計な記述だと感じます。
この、問題の記述は、無いほうがよかったと思うのですが、あるいは、
「兄ちゃんと、その彼女に言われて、ピアスを着けたまま寝て、寝返りを打った時に深く刺さって、マクラに血がついてしまったことを思い出した」
という文に差し替えたほうがよかったとも思います。あるいは、もともと、作者は、このような文を書こうとして、その直前に、タオルについていたうっすらとした汚れを見て「血みたい」と書いたことで、余計な連想をして、いわば思い付きで予定を変えてしまったのかもしれないとも思ったりします。
スバルに関して、兄やその「彼女」や友達に逆らえずに、彼らとの「つきあい」のために学校に行けないという事情は、城の他の中学生とは違ったスバルに特有の事情であり、このようなスバルが学校に行けない理由を示唆する記述は必要なものだと思いますが、「親と一緒に暮らせない子、寂しさから出会った友達との関係が途絶えることを恐れて「友達」に逆らえない子」に加えて、「セックスをする中学生はそういう寂しい子」というような類型化、レッテル貼りを前提にしなければ理解できないような問題の記述は残念な記述だと思います。作者は、自らが嫌っていたはずのレッテル貼りに基づく記述をしてしまい、そういうレッテル貼りから自由である読者が違和感を感じるような一文になってしまっているのではないでしょうか? Yahii!知恵袋に投稿された
「この作品がすごく好きで既に何回も読み直しているのですが唯一ここだけがいつも『??』となってしまいます」
という「質問」も、読者の自然な感想ではないかと思います。
作品について、批判的なことも書いてしまいましたが、学校に行けない子どもたちへのレッテル貼りに反発する姿勢を貫こうとして成功している部分のほうがはるかに多いと思うし、『かがみの孤城』は注目すべき傑作だとも思っています。
「レッテル貼り」、つまり、「類型化」への反発については、
『夢の中の第3村: 「エヴァンゲリオン」「まどかマギカ」と「かがみの孤城」の芸術論』(Kindle版電子書籍)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09PMMW9HS/
の第三章(「かがみの孤城」が示した類型化への抵抗)をお読みいただければさいわいです。
ただし、『かがみの孤城』のネタバレ防止のなめ、小説未読の方は、決して、『夢の中の第3村』の第二章~第四章をお読みになることがないよう、ご注意ください。『かがみの孤城』は、まもなくアニメ映画化され、22年冬に公開されるということなので、そうなれば、映画を見た人も、夢の中の第3村』の第二章~第四章を読んでよいということになりますが、現在は、まだ、小説既読者のための章ですので、ご了承ください。
なお、「Yahoo!知恵袋」の中の
「この作品がすごく好きで既に何回も読み直しているのですが唯一ここだけがいつも『??』となってしまいます」
と書かれた質問は、22年4月17日の質問
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12260429192
です。
〔北村正裕ホームページ紹介サイト〕
https://masahirokitamura33.wixsite.com/masahirokitamura
〔北村正裕ツイッター〕
https://twitter.com/masahirokitamra
【22. 8.16追記】
『夢の中の第3村: 「エヴァンゲリオン」「まどかマギカ」と「かがみの孤城」の芸術論』(Kindle版電子書籍)の内容を再構成の上、加筆、改題して新刊本として出版するための準備中です。発売時期など、詳しい情報については、後日、ツイッター
https://twitter.com/masahirokitamra
でお知らせできると思います。
(22. 8.16追記)
【22年11月7日追記】
小説『かがみの孤城』(辻村深月作)について論じる作品論
『「かがみの孤城」奇跡のラストの誕生』(北村正裕著)、
彩流社からの12月の出版が決まりました。
情報記事
http://masahirokitamura.dreamlog.jp/archives/52493986.html
(22年11月7日追記)
【追記】
『夢の中の第3村: 「エヴァンゲリオン」「まどかマギカ」と「かがみの孤城」の芸術論』(Kindle版電子書籍)の内容を再構成し、修正も加えた本が、『「かがみの孤城」奇跡のラストの誕生』のタイトルで彩流社から出版されています(23年1月刊)。
彩流社の情報ページ
https://www.sairyusha.co.jp/book/b10025211.html



https://www.amazon.co.jp/dp/B09PMMW9HS/
では、『かがみの孤城』(辻村深月作)、17年版について、その優れた点を取り上げていて、特に、その第三章(「かがみの孤城」が示した類型化への抵抗)では、不登校の子どもたちなどへのレッテル貼り、類型化への反発を貫く姿勢が成功している部分について取り上げましたが、すべてが成功しているわけでなく、例えば、登場人物のひとり、スバルについては、実質的なレッテル貼り、類型化に基づく記述によって、唐突で違和感を与える結果になってしまっている部分がああると感じています。
その違和感を感じさせる部分というのは、「三月」の章の、スバルの記憶がこころに流入する場面の、
「兄ちゃんの彼女の友達が、初めてセックスすると女は血が出るんだよ、と言っていたことを思い出して、少し笑う。あの子が血が出なかったのは、きっと初めてじゃなかったからだ」
という部分(17年版単行本P444の16~17行目、21年文庫版では下巻P212の14~16行目)です。
スバルの記憶がこころに流入するこの場面、「あの子が血が出なかったのは……」の部分について、「Yahoo!知恵袋」に、
「この作品がすごく好きで既に何回も読み直しているのですが唯一ここだけがいつも『??』となってしまいます」
と書かれた質問があるのを見つけましたが、自分も好きでないこの部分について、少し、書いておきます。たしかに、この部分、唐突な印象を与える部分だと思います。
「兄ちゃんの彼女の友達が」という記述があることから、スバルには、兄の「彼女」やその友達とつきあいがあるということになるので、「あの子」も、スバルの兄の「彼女」の友達か、あるいは、そのまた友達など、いずれにしてもスバルの兄につながる誰かという可能性はあるのではないかと思いますが、それが誰であっても、鏡の城のメンバーにとっては、どうでもよいことでしょう。
「八月」の章では、スバルがピアスをつけたことが、「兄ちゃんと、その彼女」から半ば強制的にさせられたことだというようなスバルの台詞がありますが、スバルは、兄とその「彼女」の影響をかなり受けている、というより、彼らに逆らえない状況にあったということだと思います。
スバルは祖父母と暮らしていて、親とはたまにしか会えないという境遇で、それゆえ、兄との関係を切り捨てることは、スバルには難しかったのかもしれません。少なくとも、作者は、スバルを、そのように描こうとしているように思います。
スバルの「兄ちゃんと、その彼女」という言葉に対して、こころの心理描写の中で、
「それは、こころが苦手に思うような人たちだという気がした。こころがスクールの喜多嶋先生やお母さんに、そういう子たちと同じに思われたくないと感じたような種類の子たち。日中、学校に行かず、ゲームセンターやショッピングセンターで平然と遊ぶような、派手な子」
(17年版単行本P176、21年文庫版では上巻P245)
と、表現されていますが、作者は、そのように、スバルに、こころとは異質な中学生のイメージを与えることで、鏡の城のメンバーに多様性を与えることを狙っているように思えます。しかし、スバルに関するご指摘の部分については、それが成功しているかどうかは、また、別の問題です。はっきり言ってしまうと、僕は、スバルに関する「あの子が……」の部分は好きではありません。
作者は、学校に行けない子どもに、例えば、「大規模な中学校になじめない子」などなどのレッテル貼りですますようなことに強く反発していて、「今目の前にいる子たちの抱える事情はそれぞれ違う。一人として同じことはない」(「エピローグ」での晶子の心情描写より)ということを強調しようとしていると思いますが、スバルに関しては、親と一緒に暮らせない子、寂しさから出会った友達との関係が途絶えることを恐れて「友達」に逆らえない子、というようなありがちなレッテル貼りをしてしまったことにならないか、とういうように批判的に見てしまいます。鏡の城での場面で丁寧に描いて作り上げたスバルのイメージが、このレッテル貼りの行きつく先にあった問題の「あの子が……」の記述で傷つけられてしまったように思えて、これは、残念なことだと、僕は感じています。作者は、過去のスバルに「問題児」のレッテルを張った大人たちに反発しながら、自ら、スバルに実質的に類型化に基づくレッテル貼りをしてしまうという失敗をしているように思います。スバルと兄の「彼女」の友達との関係が具体的に描けない以上、安易な類型化を連想させるような記述はすべきではなかったのではないかと、僕は、思っています。問題の部分(17年単行本では2行、21年文庫版では3行)は、余計な記述だと感じます。
この、問題の記述は、無いほうがよかったと思うのですが、あるいは、
「兄ちゃんと、その彼女に言われて、ピアスを着けたまま寝て、寝返りを打った時に深く刺さって、マクラに血がついてしまったことを思い出した」
という文に差し替えたほうがよかったとも思います。あるいは、もともと、作者は、このような文を書こうとして、その直前に、タオルについていたうっすらとした汚れを見て「血みたい」と書いたことで、余計な連想をして、いわば思い付きで予定を変えてしまったのかもしれないとも思ったりします。
スバルに関して、兄やその「彼女」や友達に逆らえずに、彼らとの「つきあい」のために学校に行けないという事情は、城の他の中学生とは違ったスバルに特有の事情であり、このようなスバルが学校に行けない理由を示唆する記述は必要なものだと思いますが、「親と一緒に暮らせない子、寂しさから出会った友達との関係が途絶えることを恐れて「友達」に逆らえない子」に加えて、「セックスをする中学生はそういう寂しい子」というような類型化、レッテル貼りを前提にしなければ理解できないような問題の記述は残念な記述だと思います。作者は、自らが嫌っていたはずのレッテル貼りに基づく記述をしてしまい、そういうレッテル貼りから自由である読者が違和感を感じるような一文になってしまっているのではないでしょうか? Yahii!知恵袋に投稿された
「この作品がすごく好きで既に何回も読み直しているのですが唯一ここだけがいつも『??』となってしまいます」
という「質問」も、読者の自然な感想ではないかと思います。
作品について、批判的なことも書いてしまいましたが、学校に行けない子どもたちへのレッテル貼りに反発する姿勢を貫こうとして成功している部分のほうがはるかに多いと思うし、『かがみの孤城』は注目すべき傑作だとも思っています。
「レッテル貼り」、つまり、「類型化」への反発については、
『夢の中の第3村: 「エヴァンゲリオン」「まどかマギカ」と「かがみの孤城」の芸術論』(Kindle版電子書籍)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09PMMW9HS/
の第三章(「かがみの孤城」が示した類型化への抵抗)をお読みいただければさいわいです。
ただし、『かがみの孤城』のネタバレ防止のなめ、小説未読の方は、決して、『夢の中の第3村』の第二章~第四章をお読みになることがないよう、ご注意ください。『かがみの孤城』は、まもなくアニメ映画化され、22年冬に公開されるということなので、そうなれば、映画を見た人も、夢の中の第3村』の第二章~第四章を読んでよいということになりますが、現在は、まだ、小説既読者のための章ですので、ご了承ください。
なお、「Yahoo!知恵袋」の中の
「この作品がすごく好きで既に何回も読み直しているのですが唯一ここだけがいつも『??』となってしまいます」
と書かれた質問は、22年4月17日の質問
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12260429192
です。
〔北村正裕ホームページ紹介サイト〕
https://masahirokitamura33.wixsite.com/masahirokitamura
〔北村正裕ツイッター〕
https://twitter.com/masahirokitamra
【22. 8.16追記】
『夢の中の第3村: 「エヴァンゲリオン」「まどかマギカ」と「かがみの孤城」の芸術論』(Kindle版電子書籍)の内容を再構成の上、加筆、改題して新刊本として出版するための準備中です。発売時期など、詳しい情報については、後日、ツイッター
https://twitter.com/masahirokitamra
でお知らせできると思います。
(22. 8.16追記)
【22年11月7日追記】
小説『かがみの孤城』(辻村深月作)について論じる作品論
『「かがみの孤城」奇跡のラストの誕生』(北村正裕著)、
彩流社からの12月の出版が決まりました。
情報記事
http://masahirokitamura.dreamlog.jp/archives/52493986.html
(22年11月7日追記)
【追記】
『夢の中の第3村: 「エヴァンゲリオン」「まどかマギカ」と「かがみの孤城」の芸術論』(Kindle版電子書籍)の内容を再構成し、修正も加えた本が、『「かがみの孤城」奇跡のラストの誕生』のタイトルで彩流社から出版されています(23年1月刊)。
彩流社の情報ページ
https://www.sairyusha.co.jp/book/b10025211.html


