1月5日、東京文化会館で、ウクライナ国立バレエの2023年新制作の「ジゼル」(ヴィクトル・ヤレメンコ改訂振付、2023年新制作)の公演を見ました。
一年前の日本公演を見逃していたため、自分にとっては、今回、貴重な観劇機会になりました。
物語の結末も変わってしまう、すごい演出でしたが、通常版よりむしろ納得できるようなものでした。
ラストでアルブレヒトも死に、来世でジゼルと結ばれるという演出です。
そのラストだけでなく、随所に工夫がされている演出だったので、いくつか、気付いた点を書いておきます。
まず、第1幕。
花占いの場面。アルブレヒトがあらかじめ花びらを数えて1枚抜き取るという演出が多いところですが、今回の演出では、アルブレヒトは細工をせず、花を放り投げて、占いを否定するかのような演出になっていました(占いには頼らない)。
そして、ジゼルの母が、ジゼルに「踊ってばかりいると、死んでウィリになって踊り続けることになる」と言って、踊りを止める場面、突然、暗転し、第2幕を思わせる暗めの照明に照らされた前景部分に本当にウィリの姿が現れるという幻想的な演出になっていました(第2幕の予告のよう)。
アルブレヒトの婚約者のバチルドと彼女の父親等が狩りの途中にジゼルと出会った後、通常版で原台本通りにジゼルの家で休憩するところは、今回の演出ではジゼルの家にはいらず、舞台左手に退場して、家の近くを散策するかのような演出になっていました(ジゼルと母親によるもてなしの大幅削減)。
アルブレヒトの正体を知ってショックを受けたジゼルの「狂乱の場」では、通常、ジゼルの髪がほどけて「狂乱」の場面らしさを示すという演出になっていますが、今回の演出ではジゼルの髪がほどけるとこはなく、ショックは受けても必ずしも「狂乱」という感じではなく、過去のアルブレヒトとのシーンを回想する演技をしっかりと演じていました。
第2幕では、冒頭、ジゼルの墓の前にジゼルの母親の姿を出していました(第1幕ラストで悲しんだ母が第2幕にも登場)。
ジゼルがアルブレヒトをかばって彼が墓の十字架から離れないようにする場面、通常、ウィリの女王、ミルタが、それを阻止しようとしてふるった杖が折れるシーン、今回の演出では、ウィリは杖を使っていませんでした(杖の魔法には頼らない)。
そして、いよいよ、ラストシーン。
ジゼルの姿が消えた後、アルブレヒトがジゼルの墓の前で倒れます。
すると、アルブレヒトの婚約者、バチルドが登場して、倒れているアルブレヒトを見つけて悲しむ姿でアルブレヒトが死んでしまったことがわかります。
バチルドの登場シーンは、原台本にはあるものの、通常、カットされる場面。そして、アルブレヒトの死を示す場面(バチルドが悲しむ場面)は、原台本にさえないもので、今回の演出の最大のポイントと言ってよいでしょう。
ここで幕が降りるのですが、これで終わりではなく、静かな音楽が続き、再び幕が上がり、現れたのは、来世で結ばれるジゼルとアルブレヒト。ここで、通常版のラストの音楽、つまり、ジゼルの消滅の場面の音楽が奏でられながら本当の幕となります。
もともと、「ジゼル」の原台本の物語というのは、釈然としないものです。アルブレヒトは、貴族の身分を隠して、村の娘、ジゼルと交際していて、彼の正体を知ったジゼルがショックを受けて死んでしまった後、ジゼルの墓参りにやって来るものの、ラストでは、彼を捜しに来た彼の婚約者、バチルドに手を差しのべるというものです。
「この裏切者!」と、ジゼルに代わって言ってやりたいような物語です。
そんな裏切り者をも、裏切られたことを知って死んでしまった後も、ウィリという幽霊のような存在になってからも、彼の命を護ろうとするジゼルは、多くのファンに人気があるようですが、本当にアルブレヒトを愛しているなら、彼を殺してでも来世で結ばれることを望むのが自然なのでは……などと、いつも思っていました。
とは言っても、ジゼルがアルブレヒトを殺そうとしたのでは、物語になりませんね。
そして、今回の演出では、ジゼルは、通常版と同様、アルブレヒトの命を護ろうとするものの、力及ばず、アルブレヒトは死に、その結果、二人は来世で結ばれるというもの。
この演出によって、ジゼルの誘惑の舞の場面のビオラソロによる美しい音楽など、従来の名場面は通常版同様に楽しめ、その上で、ラストも、違和感なく納得できるというわけで、驚きましたが、見てしまうと、これまで、こういう演出がなかったことが不思議になるほどでした。
もともと、「ジゼル」は、原台本、原曲をかなり改変して、ラストのバチルドの登場場面を削除するなどし、音楽面でも、アダンの曲に、ブルグミュラーの曲(村娘の踊り)、ミンクスの曲とされる(第1幕のジゼルのソロ)を挿入したりして人気作になったものなので、それにさらに改変を加えても、あまり抵抗は感じません。原曲、原台本が完璧なものなら改変は許されないと感じるでしょうが、「ジゼル」の場合は、そうではないので、いままで、今回のような大胆な演出がなかったことが、むしろ意外なくらいです。
例えば、チャイコフスキー作曲による『くるみ割り人形』のような、ある意味、完璧な音楽によって完成している感のある作品の場合は、その音楽的改変は残念な結果を生むことが多いでしょうが、『ジゼル』は、パリでの初演時からアダンの曲にブルグミュラーの曲が挿入されていて、その後も改訂が重ねられ、特に、サンクトペテルブルクのマリインスキイ劇場でのプティパによる改訂版によって、パリでの上演が途絶えてしまった後も生き続けて今日に至っているといった事情もある作品なので、さらなる改訂にもあまり抵抗を感じません。
今回の演出の登場で、今後、ラストで、アルブレヒトが倒れ伏して幕となるような演出が登場すれば、観客は、自然に、来世での結婚を想像できるようになるでしょうし、そういう意味でも、今回の演出の意義は大きいように思いました。ただ、一方で、ラストを短くカットして、ある意味、曖昧な結末にした演出も、シンプルさゆえに捨てがたいように思います。
もちろん、コラ^リとペローの振付でパリで初演されたバージョンをサンクトペテルブルクのマリインスキイ劇場のプティパが改訂し、一度は上演が途絶えていたパリにも里帰りした歴史的なバージョンは貴重で、それがあっての改訂版ですが、今回のような大胆なバージョンの登場は『ジゼル』の上演史に大きな足跡を残すものだと言ってもよいように思いました。モダンバレエなら色々あるでしょうが、あくまでもクラシックのスタイルでの上演となると、『ジゼル』の場合、今回のような大胆な演出を見たことがなかったので、自分には、とても画期的な演出と感jじられました。
古典の改変というと、例えば、滅びの美しさが魅力的だった『白鳥の湖』が旧ソ連でハッピーエンドに改変されてしまった例があり、悲劇の美しさが台無しになってしまったと感じるのですが、今回の『ジゼル』の場合はかなり違うと思います。というのは、メッセレルなどによる『白鳥の湖』のハッピーエンド演出は、ジークフリートが剣でロットバルトを殺害するというものであったのに対して、今回の『ジゼル』の演出では、ジゼルはアルブレヒトの命を護ろうとしたものの果たせずに、その結果が幸福なラストシーンにつながっているという点を見逃せないと思います。努力の結果の幸福などは興覚めなお説教のようなものに見えてしまいますが、今回の演出の、幸福が努力と無関係であるという点、さらには、それが死によってもたらされているという点など、これこそ芸術、と感じるものです。現実的なお説教などとは対極にあるゆえ、感動的なのではないかと感じました。もちろん、ミルタをはじめとするウィリたちとの攻防は何だったのだ、といったツッコミがはいりそうではあるし、ラストで、一度、幕を下ろして再び上げるというやり方が音楽の流れを止めているという点(弦の長いトレモロで対応していましたが)などの問題はあると思います。
今回、1月5日の公演は、主役の菅井円加(ハンブルクバレエプリンシパル、ゲスト出演)をはじめダンサーも好演だったし、演奏(ウクライナ国立歌劇場管弦楽団)も、ミコラ・ジャジーラの指揮も、伴奏の域に留まらない自己主張のある音を聴かせてくれてよかったと思います。
なお、「ジゼル」の原曲や原台本については、福田一雄著『バレエの情景』(1982年、音楽之友社刊)に詳しい解説があります。




〔5日、観劇当日のX投稿〕
https://x.com/masahirokitamra/status/1875890794361708838
〔2020年2月のパリ・オペラ座バレエ日本公演についての20年3月7日のブログ記事〕
https://masahirokitamura.dreamlog.jp/archives/52466474.html
(今回もジゼルの宙乗りのない演出でしたが20年3月7日のブログ記事にその意義についての記述があります)
〔北村正裕ホームページ紹介サイト〕
https://masahirokitamura33.wixsite.com/masahirokitamura
一年前の日本公演を見逃していたため、自分にとっては、今回、貴重な観劇機会になりました。
物語の結末も変わってしまう、すごい演出でしたが、通常版よりむしろ納得できるようなものでした。
ラストでアルブレヒトも死に、来世でジゼルと結ばれるという演出です。
そのラストだけでなく、随所に工夫がされている演出だったので、いくつか、気付いた点を書いておきます。
まず、第1幕。
花占いの場面。アルブレヒトがあらかじめ花びらを数えて1枚抜き取るという演出が多いところですが、今回の演出では、アルブレヒトは細工をせず、花を放り投げて、占いを否定するかのような演出になっていました(占いには頼らない)。
そして、ジゼルの母が、ジゼルに「踊ってばかりいると、死んでウィリになって踊り続けることになる」と言って、踊りを止める場面、突然、暗転し、第2幕を思わせる暗めの照明に照らされた前景部分に本当にウィリの姿が現れるという幻想的な演出になっていました(第2幕の予告のよう)。
アルブレヒトの婚約者のバチルドと彼女の父親等が狩りの途中にジゼルと出会った後、通常版で原台本通りにジゼルの家で休憩するところは、今回の演出ではジゼルの家にはいらず、舞台左手に退場して、家の近くを散策するかのような演出になっていました(ジゼルと母親によるもてなしの大幅削減)。
アルブレヒトの正体を知ってショックを受けたジゼルの「狂乱の場」では、通常、ジゼルの髪がほどけて「狂乱」の場面らしさを示すという演出になっていますが、今回の演出ではジゼルの髪がほどけるとこはなく、ショックは受けても必ずしも「狂乱」という感じではなく、過去のアルブレヒトとのシーンを回想する演技をしっかりと演じていました。
第2幕では、冒頭、ジゼルの墓の前にジゼルの母親の姿を出していました(第1幕ラストで悲しんだ母が第2幕にも登場)。
ジゼルがアルブレヒトをかばって彼が墓の十字架から離れないようにする場面、通常、ウィリの女王、ミルタが、それを阻止しようとしてふるった杖が折れるシーン、今回の演出では、ウィリは杖を使っていませんでした(杖の魔法には頼らない)。
そして、いよいよ、ラストシーン。
ジゼルの姿が消えた後、アルブレヒトがジゼルの墓の前で倒れます。
すると、アルブレヒトの婚約者、バチルドが登場して、倒れているアルブレヒトを見つけて悲しむ姿でアルブレヒトが死んでしまったことがわかります。
バチルドの登場シーンは、原台本にはあるものの、通常、カットされる場面。そして、アルブレヒトの死を示す場面(バチルドが悲しむ場面)は、原台本にさえないもので、今回の演出の最大のポイントと言ってよいでしょう。
ここで幕が降りるのですが、これで終わりではなく、静かな音楽が続き、再び幕が上がり、現れたのは、来世で結ばれるジゼルとアルブレヒト。ここで、通常版のラストの音楽、つまり、ジゼルの消滅の場面の音楽が奏でられながら本当の幕となります。
もともと、「ジゼル」の原台本の物語というのは、釈然としないものです。アルブレヒトは、貴族の身分を隠して、村の娘、ジゼルと交際していて、彼の正体を知ったジゼルがショックを受けて死んでしまった後、ジゼルの墓参りにやって来るものの、ラストでは、彼を捜しに来た彼の婚約者、バチルドに手を差しのべるというものです。
「この裏切者!」と、ジゼルに代わって言ってやりたいような物語です。
そんな裏切り者をも、裏切られたことを知って死んでしまった後も、ウィリという幽霊のような存在になってからも、彼の命を護ろうとするジゼルは、多くのファンに人気があるようですが、本当にアルブレヒトを愛しているなら、彼を殺してでも来世で結ばれることを望むのが自然なのでは……などと、いつも思っていました。
とは言っても、ジゼルがアルブレヒトを殺そうとしたのでは、物語になりませんね。
そして、今回の演出では、ジゼルは、通常版と同様、アルブレヒトの命を護ろうとするものの、力及ばず、アルブレヒトは死に、その結果、二人は来世で結ばれるというもの。
この演出によって、ジゼルの誘惑の舞の場面のビオラソロによる美しい音楽など、従来の名場面は通常版同様に楽しめ、その上で、ラストも、違和感なく納得できるというわけで、驚きましたが、見てしまうと、これまで、こういう演出がなかったことが不思議になるほどでした。
もともと、「ジゼル」は、原台本、原曲をかなり改変して、ラストのバチルドの登場場面を削除するなどし、音楽面でも、アダンの曲に、ブルグミュラーの曲(村娘の踊り)、ミンクスの曲とされる(第1幕のジゼルのソロ)を挿入したりして人気作になったものなので、それにさらに改変を加えても、あまり抵抗は感じません。原曲、原台本が完璧なものなら改変は許されないと感じるでしょうが、「ジゼル」の場合は、そうではないので、いままで、今回のような大胆な演出がなかったことが、むしろ意外なくらいです。
例えば、チャイコフスキー作曲による『くるみ割り人形』のような、ある意味、完璧な音楽によって完成している感のある作品の場合は、その音楽的改変は残念な結果を生むことが多いでしょうが、『ジゼル』は、パリでの初演時からアダンの曲にブルグミュラーの曲が挿入されていて、その後も改訂が重ねられ、特に、サンクトペテルブルクのマリインスキイ劇場でのプティパによる改訂版によって、パリでの上演が途絶えてしまった後も生き続けて今日に至っているといった事情もある作品なので、さらなる改訂にもあまり抵抗を感じません。
今回の演出の登場で、今後、ラストで、アルブレヒトが倒れ伏して幕となるような演出が登場すれば、観客は、自然に、来世での結婚を想像できるようになるでしょうし、そういう意味でも、今回の演出の意義は大きいように思いました。ただ、一方で、ラストを短くカットして、ある意味、曖昧な結末にした演出も、シンプルさゆえに捨てがたいように思います。
もちろん、コラ^リとペローの振付でパリで初演されたバージョンをサンクトペテルブルクのマリインスキイ劇場のプティパが改訂し、一度は上演が途絶えていたパリにも里帰りした歴史的なバージョンは貴重で、それがあっての改訂版ですが、今回のような大胆なバージョンの登場は『ジゼル』の上演史に大きな足跡を残すものだと言ってもよいように思いました。モダンバレエなら色々あるでしょうが、あくまでもクラシックのスタイルでの上演となると、『ジゼル』の場合、今回のような大胆な演出を見たことがなかったので、自分には、とても画期的な演出と感jじられました。
古典の改変というと、例えば、滅びの美しさが魅力的だった『白鳥の湖』が旧ソ連でハッピーエンドに改変されてしまった例があり、悲劇の美しさが台無しになってしまったと感じるのですが、今回の『ジゼル』の場合はかなり違うと思います。というのは、メッセレルなどによる『白鳥の湖』のハッピーエンド演出は、ジークフリートが剣でロットバルトを殺害するというものであったのに対して、今回の『ジゼル』の演出では、ジゼルはアルブレヒトの命を護ろうとしたものの果たせずに、その結果が幸福なラストシーンにつながっているという点を見逃せないと思います。努力の結果の幸福などは興覚めなお説教のようなものに見えてしまいますが、今回の演出の、幸福が努力と無関係であるという点、さらには、それが死によってもたらされているという点など、これこそ芸術、と感じるものです。現実的なお説教などとは対極にあるゆえ、感動的なのではないかと感じました。もちろん、ミルタをはじめとするウィリたちとの攻防は何だったのだ、といったツッコミがはいりそうではあるし、ラストで、一度、幕を下ろして再び上げるというやり方が音楽の流れを止めているという点(弦の長いトレモロで対応していましたが)などの問題はあると思います。
今回、1月5日の公演は、主役の菅井円加(ハンブルクバレエプリンシパル、ゲスト出演)をはじめダンサーも好演だったし、演奏(ウクライナ国立歌劇場管弦楽団)も、ミコラ・ジャジーラの指揮も、伴奏の域に留まらない自己主張のある音を聴かせてくれてよかったと思います。
なお、「ジゼル」の原曲や原台本については、福田一雄著『バレエの情景』(1982年、音楽之友社刊)に詳しい解説があります。




〔5日、観劇当日のX投稿〕
https://x.com/masahirokitamra/status/1875890794361708838
〔2020年2月のパリ・オペラ座バレエ日本公演についての20年3月7日のブログ記事〕
https://masahirokitamura.dreamlog.jp/archives/52466474.html
(今回もジゼルの宙乗りのない演出でしたが20年3月7日のブログ記事にその意義についての記述があります)
〔北村正裕ホームページ紹介サイト〕
https://masahirokitamura33.wixsite.com/masahirokitamura